『戦場でワルツを』 | リュウセイグン

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長文多し。

これが戦争だ!
これが軍隊だ!
これが戦場だ!




と、某ソラ○ヲトに突きつけてあげたくなる作品でした。
軍隊物ってやっぱある種の昂揚感とか、無常観が出てこないとやる意味が無くなっちゃうと思うんだね。



あらすじ
本作の監督はレバノン侵攻に参加していたにも関わらずその記憶が欠落していることに気付く。
と、同時に奇妙なフラッシュバックに襲われる。
それは現実なのか幻想なのか、それを探る為に戦友や戦争関係者に取材して回る。

事件背景はこちらを参照 すると良いかも。
僕もそんなに分からないから、難しいと感じても気にすること無いぜ!


アニメだけれどもドキュメンタリーという、かなり珍しいんじゃないかという手法。
何故こうやったかは諸説あると思うんだけど、僕の考えるのは

「現実と幻想の境界を曖昧にしておく為」

なんじゃないかという気がする。
ストーリーを見ても分かるが、この作品は「欠落した記憶と、ある光景の真偽を追い求める話」だ。
そしてファーストショットは26匹の犬が疾走するシーンから始まる。
それは集落を襲撃する際に、26匹の犬を撃ち殺した戦友の夢で、彼に復讐を果たそうと集まってきたのだ。

しかし夢の下りが終わっても、アニメであることは変わらない。
そして主人公の見るフラッシュバックも、実際のインタビューも、全てアニメで描かれる。
他の知人も、戦争時に見た夢の光景を語る。
他にも戦争時のエピソードや、戦争カメラマンの話などが出てくるが、必ずしも主人公の記憶の欠落と直接的に関わる話とは限らない。

これらの話はとても興味深く、ハイキング気分で戦車に乗ってお菓子を食べ、歌いながら意気揚々と進軍していたらいきなり狙撃・襲撃されて、味方もさっさとトンズラこいて、命からがら逃げ延びたとか、カメラをを通している間は冷静に観れていたけどカメラが壊れてた後に競馬場の馬が酷い有様なのを見て現実感を取り戻してしまったりとか、面白い話に事欠かないのだが、それは本筋じゃないのだ。

一方記憶が戻ってくる部分もあるのだが、それもまた衝撃的なエピソードもありつつ幻想性というか、取り留めの無さが残っている。
RPGを抱えた子供との戦闘シーンでは、BGMはむしろクラシックで、神秘的な雰囲気すらある。
夢も現実も、残酷であるにもかかわらず何処かシュールで冗談のような空気感に支配されているように見える。

だがラストシーンでそれは一変する
そこで出てくるのは、圧倒的な現実。
イスラエル軍とファランヘ党による行動の結果だ。
血流溢れる桃源郷を彷徨っていた僕らは、そこで一気にこれがリアルであることを認識する

恐らくは、その為の表現手法だったのではないか……と思うところだ。

戦争は本来忌避されるべき物だが、同時に間違いなく人に昂揚感をもたらせる一面が存在する。
他者を蹂躙し、自らの力を誇る。
もちろん相対的な物に過ぎないが、それが出来うる状況であり、また価値観がそう設定されている。
だから戦闘で兵士が機関銃のワルツを踊り、イスラエル軍とファランヘ党員がバシールとワルツを踊る事は彼らにとってはさほど不自然ではなかったのかもしれない。

本事件の確信になるサブラ・シャティーラの虐殺 に於いてイスラエル軍は虐殺に直接的な関与をしていなかったようである。
しかし主人公(語り手)である監督もまた、直接関与はしていない。
ファランヘの民兵が動きやすいように照明弾を打ち上げていただけだった。
にも関わらず、事件の記憶を無くしている。
それは彼の両親がアウシュビッツに捕らわれており、そのイメージと重なった為に虐殺の記憶を消してしまったのだろうとセラピストは推測する。彼は傍観者だったが、その時は実行者と同じ罪を感じただけで、気に病むことはないと。

だが、果たしてそうだろうか?

迫害され虐殺されたユダヤの民が、時と場所を移して、今度は迫害や虐殺を下す側についている。

まるで自分を撃った人間に群がるあの犬たちのように。

それだけではない。
イスラエル軍は直接的に手こそ下さなかったが、難民を塞き止めてファランヘ党の虐殺をお膳立てした。

まるで復讐という病に蝕まれた狂犬をけしかけるように。

最後のシーンは、その結果を、事実を我々に見せつける。

本作は去年のアカデミー賞外国語映画部門でノミネートされ、『おくりびと』に競り負けた。
確かに僕はエンターテイメントとしてどちらを観るか、また他人にどちらを観た方が良いかと言われれば『おくりびと』を勧めるだろう。

しかし、一生涯でこの2作品のどちらかだけを観なければならず、もう片方には目を通すことが出来ないとしたら、僕はきっと『戦場でワルツを』に手を伸ばす。