正義という名の貧乏クジ | リュウセイグン

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漸くというか『スパイダーマン2』を観ました。

噂には聞いて居たけれど、やはり素晴らしい出来だったなぁ。
1はそこまで好きじゃなくて、3は駄作という話ですのでこれっきりになるかと思いますが、この二作目を産み出しただけで成功と言える気がします。
その辺り『ダークナイト』と似通っているかも知れません。


どうもアニメを中心観ている方々の中にはハリウッド映画は全部マイケル・ベイが作ってる、みたいな印象を抱いていて、ドラマが無く、映像の迫力ばかり重視していて、日本の作品がハリウッド映画化されると心配される……という現象がしばしばみられます。


いや……まぁ『ドラエボン』(ドラゴンボール・エボリューションの略/破壊屋さん参照)なんかがあるんで否定は出来ない部分はあるんですけれども、それは日本と同様クリエイターがアレな場合であって、近年ではアメコミ物などでも非常に自己言及的というか、社会性まで織り込んだクオリティの高い作品が出てきています。


僕なんか直前にDTBの一期を見終わったばかりでガックリした所に『スパイダーマン2』が来たもんだから、

やっぱ日本のアニメって俺に逢わないのかもしれんなぁ

などと内省してしまったくらいです。
まぁその後『電脳コイル』最終回と『君に届け』の友達回を観て、希望を取り戻したんですけど。

ともあれ、『スパイダーマン2』は僕にヒーローや正義の何たるかを示してくれた気がします。

ここら辺、『ダークナイト』と比べると面白そうなので、比較しつつ語っていきます。

サム・ライミの『スパイダーマン』シリーズ、中でも2に流れるのは「良心の物語」です。
1において、スパイダーマンことピーターは個人的な気持ちから犯罪者を見逃してしまいます。
その結果、伯父がその犯罪者の犠牲になって死亡。
後悔の念から、彼はスパイダーマンとして戦う事を決意するのです。
それと共に、伯父さんの教えの一つとして重要な台詞があります。


大きな力には、大きな責任が伴う


これこそ、本シリーズのテーマとも言うべき言葉です。
これを語る時、殆どの場合は「大きな力を制限するもの」として捉えられがちになります。
すなわち、大きな力を持つ者は、またそれを使う時は気を付けろ。というような
しかし本作のとらえ方は恐らく異なります。

大きな力を持つのは構わない、ただそれを持つ者は大きな力で出来るだけ事をしろ。

という意味合いとして使われているように見受けられるのです。
だから1のスパイダーマンは力を使う事に躊躇いを感じません。
何故なら彼は力を持ちつつもそれを使用しない事で伯父を死に追いやってしまったからです。
要するに本作で重要なのは

力を使う事に気を付けるのではなく、使わない事に気を付けなければならない

という事なのですね。
2は、それが更に顕著となります。

ピーターは大きな力こそありますが、本来ナードと呼ばれるアメリカの学園生活では最下級の存在で、彼自身は気弱な少年でしかありませんでした。
簡単に言えばのび太君の位置。
学校は卒業しましたが、その要素は残っていて、彼はハッキリ言って社会の中で邪魔者でしか無いように描写されます。1のラストでは片思いだったヒロインMJに思いを寄せられているのも分かるですが、その気持ちを受け入れる事が出来ません。
何故なら彼はスパイダーマンだから。
仕事の途中でも人助けを惜しんではならないし、スパイダーマンの恋人だと分かったらMJも狙われる。
更に、MJとの約束も人助けでご破算になり、完全に怒らせてしまう。

その頃から、スパイダーマンは自らの力が出にくくなっている事に気付きます。

何故か。

彼自身がヒーローという立場から解き放たれたがっていたから。

彼にとって、スパイダーマンそのものが重荷になっていたから。

だから彼はヒーローを辞めます。

大きな力を振るう事を辞めます。

しかしその後、伯母さんが語る台詞が素晴らしい。



子供達には、ヒーローが必要なの。
誰よりも勇敢で、自分を犠牲にしてまで、みんなのために手本になる人・・・
誰だってヒーローを愛してる。
人々は、その姿を見たがり、応援し、名前を呼び、そして何年も経った後で、語り継ぐでしょう。
『苦しくたってあきらめちゃいけない』と教えてくれたヒーローがいたことを。
誰の心の中にもヒーローがいるから正直に生きられる。
強くなれるし、気高くもなれる。そして最後には誇りを抱いて死ねる。
でもそのためにはヒーローは常に他人のことを考え、一番欲しいものをあきらめなくちゃならないこともある。
自分の夢さえもね・・・


こちら から、ちょっとお借りしました)



実はこの全然アクション関係ない部分が、本作一番の感動シーン。
ヒーローの力を持つ者は、ヒーローとして生きねばならない。
大きな力を持つ者は、大きな責任を負わねばならない。
自らの夢を捨ててでも。


ここに全ての『ヒーローたるもの』の魂が籠もっていると言っても過言ではない名台詞。
村枝賢一も大喜び間違いなしの一言です。

ここで語られる正義、とは人々の良心なのです。
それが示される描写は幾つもあります。

多少前後しますが、伯母さんとピーターが住宅ローンの申請に、銀行を訪れるシーンがあります。
そこでは銀行員がにべもなく「そりゃ無理ですね」と伯母さんの申し出を断る。
その直後、銀行は今回のヴィラン「Drオクトパス」に襲撃され、スパイダーマンとの戦闘に突入。
金貨の投げ合いになって、それが辺りに散らばる。
さっきの銀行員は、すかさず拾ってポケットに入れようとしますが、伯母さんがそれをはたき落とす……というシーンがあるんです。

僕はここで大笑いしました。
何故なら最初の銀行員と伯母さんのくだり、サム・ライミ監督の最新作『スペル』とまるっきり同じ。
『スペル』の主人公は老婆のローンを断り、呪いを掛けられます。
この銀行員は、欲をかいて伯母さんにたしなめられます。

つまり、少なくともサム・ライミの中では老婆にローンも組まさないような銀行員は悪なのです。
これはどうやら彼自身の出自に関わっているようです。町山智浩さんが『スペル』の解説で語っていたところによると、

サムライミの実家は裕福な家電屋。
そこにお金が無いけれどもクーラーが欲しい、という家族がやってきた。
父親の留守中だったために彼自身は、なるべくその希望が叶えられるようにと考えたが、帰ってきた父親は貧乏人など相手にもしないで追い出した。
それ以来、サムライミは絶対に家業を継がず、商売というものに関わる事を避けるようになった。


という事らしいです。
そう、ヒーロー物であるスパイダーマンでは「大きな力、大きな責任」と言っていますが、その正義の内実は

「金策に困った老婆にもローンを組んであげる」
「お金が足りなくてもクーラーを売ってあげる」
「チンピラに絡まれている少年を助けてあげる」

この延長に他ならないのです。
これは一般市民の良心と全く離れるところではありません。
だからピーターは、最後にDrオクトパスに語りかけます。

大きな力を持つ物は、大きな責任を果たさなければならない。
夢を諦めてでも

この言葉は、知能を持っていた義手に操られていたDrオクトパスの心を呼び覚まし、彼は自らの行為、そして夢にケジメを付ける為に動き出します。


またスパイダーマンが復活した後Drオクトパスが列車を暴走させた時、スパイダーマンは全力でこれを阻止し、傷付きます。
マスクすら被っていない状態の彼を市民は助け「まだ子供じゃないか」「顔を見ても、秘密にしておくよ」と語りかけ、オクトパスにも「スパイダーマンと戦いたかったら俺たちをどかしてから行け」と立ちふさがる。
これは市民たちの良心であり、彼らは大きな力など無くとも自らを抛ったスパイダーマンの心に打たれ、それと同じ行為を行いました。


だから、やはりこれは「良心の物語」だ、と思う訳です。


で、しばらく放っておかれた感がありますけれども、ここで『ダークナイト』との対比をしてみたいなと。


スパイダーマンは凡人の精神に超人の肉体を持つ少年です。
一方、バットマンは(鍛えているとは言え)凡人の肉体に超人の精神を持っています。

2でスパイダーマンがヒーローを辞めようとする理由は「自分の人生を歩みたいから」です。
これは個人的な理由ではありますが、我々も共感出来る、いわば感情や心に近い部分になります。

しかし『ダークナイト』でバットマンがヒーローを辞めようとした理由は、ハービー・デントの出現により「自らの役目は終わったと考えた」から。また「ジョーカーの被害を食い止めたかった」からです。
これは個人の欲望からかけ離れている動機です。
バットマンは、ヒーロー活動が人間として辛い、という部分も表現こそされてはいますが、それ自体が彼の行為を止める理由には全くなっていない。(もちろん私生活がリア充ってのもありますけれども)
彼は個人的欲望を越えたところでヒーローとして存在しているのです。
彼の動機は、良心とも異なります。
言うなれば「法」や「秩序」。
だから自らにもルールを課し、
だからデントが出れば、バットマンはむしろ秩序を乱すと考え、ジョーカーの無秩序を押さえる為に引退を決意するのです。彼の正義は「秩序」が保たれる事なのです。
もちろん彼自身も「無秩序」の部分を持ってはいますが、当初は自分が居た方がより秩序が保たれるであろう、と考えた上での行為だったのでしょう。

バットマンにも市民的良心は描かれます。
ジョーカーが爆弾を仕掛けたフェリーのシーンです。
しかしそれらはあくまで市民の良心であり、バットマン自身の役目は秩序と良心を守る事であっても秩序と良心を体現する事ではありません。
だからこそ彼は最後に自ら罪を被ったのです。
彼が良心を基として動き、気高く生きる手本を目指しているならば、有り得ないやり方です。
しかしゴッサムシティの良心は亡きハービー・デントに託し、自らは現状の無秩序に対峙し市民の希望を失わせない為に、敢えて汚名を着る。これはバットマンだからこその選択でした。

スパイダーマンは良心を体現して市民やMJとの絆を紡ぎ、バットマンは秩序を守護して市民の信頼とレイチェルを失います。

どちらが素晴らしい、という訳ではありません。


ただ、どちらも望むところは大多数の平和と幸福。
そして自らは苦労と責任を背負い、進んで貧乏籤を引く。


バットマンに限らず、スパイダーマンに限らず。
それこそがヒーローであり、僕が昔ッから大好きで憧れ続けた存在の使命なのでしょう。