『レスラー』そして『グラン・トリノ』、男の生き様 | リュウセイグン

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いや~、やっぱ良かった






つー訳で、『レスラー』観て参りました。
観ながら、または見終わった後で気付いたのは『グラン・トリノ』と非常に似通っているという事。

・俳優のイメージと役のイメージが殆ど同じ

・過去の栄光に縋る男

・命の危機に直面している

・家族とは没交渉

・迷い、そして答えを見つける

・最後は十字架に掛けられるキリストのように

・エンドクレジット時に反則的なまでに涙腺を刺激する歌が流れる


パクリだとかどうじゃなくて、良い物とか男の生き方を追求した結果こうなった感じがします。
ちょっと驚いたのは町山智浩さんとかが「現代のキリストだ」と言っていたのは、暗喩でもなんでもなくかなり露骨に描写されていた事でしょうか。


長い金髪をして背中にはキリストの入れ墨、途中からだけど胸に傷跡。キメ技が十字っぽい形で敵に落下する。
ヒロインがストリッパー(性を売り物にする職業)、彼女はミッキー演じるランディの髪を撫でながらメル・ギブソンの「パッション(受難)」に言及している。敵もイスラム教徒って設定らしい。
※ ちなみに最後の敵役は実際に引退したレスラーさんを起用しているらしいですが、褐色の肌なのに首から下が妙に白いのがウケました。


この辺りも『グラン・トリノ』に共通する部分だと思います。


違いを見出すとすれば『グラン・トリノ』に於てコワルスキが決断した事は自分の命と引き替えでなければならなかったんですが、『レスラー』の場合は命とかといういうレベルの話じゃなくなってるって部分か。
もう一つはコワルスキが居場所や自らの役割を決めかねていたのに対し、ランディは既に居場所と役割があって、一度は脱却しようとしたが結局戻ってきたという構造かな。

彼がラストで「希望にむかってジャンプしている」って書いた評論家さんとか、そこまで行かなくとも「復活劇じゃなくて引き際を描いた作品だ」と語ってらっしゃるファンの方もいらっしゃったんだけど、個人的には「死ぬ死なない」ってのはあくまでその時々の結果なんじゃないかと思ってます。


死ぬからやらないとか、死なないからやる。

また逆に

死ぬからやるとか、死なないからやらない。



そういう事じゃないんだと。



死のうが死ぬまいが俺がやる事は、やりたい事はやるべき事はこれしかないんだ。

医者だとか、血縁だとか、恋人だとか、そんな人達に出来る出来ない決められるようなものじゃないんだ。

俺は誇りの為に立っているし、客の歓声に応えてプロレスをしている。

そこはプロレスに関わらない部外者が口を出していい領域じゃないんだ。

こういう感じなんだと思うんですね。

そして更に言えば共にプロレスをやっている相手すら、その限りではない。対戦相手アヤトッラーが試合中もしきりにランディを心配し、早めに終わらせようと促してくれます。しかしそれすら聞き入れない。

彼が一番目を向けているのは観客だから。最後も別の技で決められるにも関わらず十字型で敵に飛びかかる必殺技「ラム・ジャム」を選びます。それは彼プロレスラー・ランディとして譲れない部分だった。

もちろん「ここにいるファンこそが俺の家族だ!!」という宣言は、本物の家族と断絶し恋人になれただろう女性を振り払ってしまった男の言葉としては物凄い悲しい意味合いを含んでいます。
或いは普通にいられたかもしれない場所を失った男の強がりだったのかもしれない。

でも、ここでランディが言った事は本心だったと信じたい。
もちろん自身も家族と別れた事は悲しかっただろうし、痛さもあった。
一瞬視線を向けたように、恋人の事を思いながらの言葉でもあった。

痛みや辛さを自覚しながらの発言ではありましょう、でもそれすら「家族があろうとなかろうと、俺の居場所は結局ここだけなんだ」って意味なんじゃないかと思う訳です。


だから僕は感動を覚える。
きっと他の人もそうだと思う。


そしてランディが画面から消え、歓声のみが流れて
ブルース・スプリングティーンが書き下ろした楽曲『レスラー』が流れます(町山さんのブログ より拝借)



ひとつの芸しかできない子馬が楽しく自由に野原を駆けるのを見たことがあるかい?

あれは俺なのさ

片脚の犬が通りを歩いていくのを見たことがあるかい?

あれも俺なのさ


見たはずだよ 俺が旅して回るのを

見たはずだよ 一試合ごとに俺が何かを失うのを

見たはずだよ 俺が血を流して観客を喜ばせるのを

言ってくれ これ以上、何を望むんだ?

言ってくれ これ以上、何が欲しいんだ?

 

ボロと籾殻しか詰まってない案山子を見たことがあるかい?

あれは俺なのさ

風に向かって拳を振るう片腕の男を見たことがあるかい?

あれも俺なのさ


見たはずだよ 俺が旅して回るのを

見たはずだよ 一試合ごとに俺が何かを失うのを

見たはずだよ 俺が血を流して観客を喜ばせるのを

言ってくれ これ以上、何を望むんだ?

言ってくれ これ以上、何が欲しいんだ?


やすらぎを与えてくれるものから 俺は去ってしまう

帰るべき家を買う金はない

俺が唯一信じられるものは、俺の砕けた骨と、

この青痣だけだ


片脚のダンサーが心から楽しそうに踊るのを見たことがあるかい?

それは俺なんだ



三沢さんの訃報の時に、書きました。
「物語の輝かしい死を現実と混同してはいけない」
と。
ただ『レスラー』の描き方は違っていたと思います。


その死が輝かしかろうが、悲しかろうが、レスラーはずっとレスラーなんだ。
レスラーとしての役目が終わるまで、マットに立ち続けるんだと。
ランディはたまたま、マットの上で命の危機と向かいましたが、もしこの映画の後に生き延びても……彼は跳び続けている事でしょう。
それは三沢さんも同じだったんだ、今はそう思いたくなりました。