
本文はここから
てのをブログネタから選んでみたら、運営の人と丸被りでワロタ。
『グラン・トリノ』を観られたそうな。
昨日の記事 の時に、ついでにブログネタで書いておきゃ良かった……。
まぁ悔やんでも仕方ないので『グラン・トリノ』についてもう少し語ってみようじゃないか。
最近のアメリカ映画の傾向なのかよくわからないけど、アメリカの抱える問題の縮小版みたいに見せている部分が多いんだよね。『ダークナイト』とかもそうだったし。物語の引き込み役としてそういうテーマを設定してるのか、それともその問題をこそ語りたいのか。ちょっと判断が付きにくい。
でも『グラン・トリノ』は特にその傾向が強いし、問題=テーマ=語りたいことなんじゃないかと思います。
デトロイトは車産業で栄えた町だけど、今は外車(もちろんアメリカからしての外車)が幅を利かせているらしい。
主人公ウォルトはフォードの工員でグラン・トリノも彼が製造工程を受け持っていたらしいが、息子が乗ってるのはホンダだ。
アジア野郎の車に乗りやがって……と実に苦々しそうなウォルト。
実際デトロイトでも衰退する車産業によって治安も悪化し、更に輸入車の根元たるアジア系人種(正確には日本人だろうが、たぶん区別は付かないだろう)に対する怨嗟の念が強い時期もあったらしい。
『ロボコップ』なんかもデトロイトの治安が悪化したからロボット警官が必要、って設定だったしな。
主人公ウォルトも元をたどればポーランド移民の流れなんだろうが、それ以上に誇り高きアメリカ人であり、輝かしかったアメリカが忘れられない。新車同然のグラン・トリノはその象徴だ。
だから黒人やヒスパニックやアジア人が流れ込み、家の芝生の手入れもしない現状、また白人が彼らに押されて肩身を狭くしている状況が不満でならない。
強く、たくましく、優しかったあのアメリカ人たちの後継者はもう居ないのか?
そう考えている彼の拠り所は、床屋のイタ公と飲み仲間くらいしかない。
そんな時、スーの気丈さやタオの実直さを知る。
彼は知ろうともしなかった移民たちの精神に触れ、初めて単純な民族レベルではなく、個々人としての価値を認めることになる。それは、彼自身の解放でもあったと思う。
神父の描き方が、そのまま彼の解放を示しているようにも見える。
当初は妻の遺言からやって来た神父に散々文句を言い、とりつく島もない。
また神父自身も気安く「ウォルト」と呼びかけ、聖書解説のような紋切り型の言葉だけを語り、少し嫌な印象を与えるキャラクターとして描かれている。
僕が最初に重ねたのは『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の新興宗教家だった。
しかしウォルトとの付き合いを深めるにつれて、神父にも変化が訪れ自分の言葉で語り始める。
ウォルトも相手の言葉を否定するものの「今度は銃に弾を込めてやって来たな(自分の言葉で語ってきたな)」と認めるような発言もする。
そしてスーの襲撃受験の直後、彼はウォルトの元にやってくるが、このときは自ら「Mr.コワルスキー」と呼びかけ、復讐についての考えを語る。ここには既に型どおりの宗教家ではない神父の姿が示される。
そしてウォルト自身も「ウォルトでいい」と、ファーストネームでの呼びかけを許す。
苦悩のさなかではあるが、お互いが歩み寄った結果としての関係性が構築されたような描写だ。
そしてついに、ウォルトは拒否していた教会へ懺悔に訪れる。
ただし、懺悔するのはあくまで日常的な事柄にすぎない。本当の懺悔はしない。
ただ「息子との折り合いがつかない」と語ったのは、彼なりの本心ではあっただろう。
タオとの関係は擬似的な家族そのままなのだから。
本当の家族による欠落を埋め合わせているための関係とも取れる。
ウォルトにとって真の懺悔は、やはり『息子』タオの前で行われた。
キチンと懺悔室よろしく鉄格子や金網越しの会話であるのが印象深い。
その内実は昨日の記事に詳しいから省略するが、教会から去るときに復讐を実行するんじゃないかと心配する神父に、ウォルトは
「私の心は安らかだ」
という。
観客もこの時点では「普通に銃で復讐をするんだろう」と思っているのだが、ラストを観た後だと全く違う意味合いが汲み取れる。また神父も心配が尽きずに、わざわざ警官とチンピラの家を張るが、結局警官が帰還するのと一緒に連れられてしまう。
最後にはウォルトの葬式。生前の会話で培った神父自身が語る言葉が出てくる。
普通、こういった映画では神父がずっと否定的に描かれたりするのだが、『グラン・トリノ』では神父もまたウォルトと同様自分の殻を破る存在として、必ずしも否定されないようなキャラとされているのだ。
また『物語中明確な役割を持った若い白人』というキャラクターは、この映画では結構貴重な存在だ。
テーマ上、ウォルトの魂自体は異民族であるタオが受け継いだが、神父もまたその薫陶を受け次代を担い同年代の移民と関係を築く白人の象徴となっているんじゃないかと思ったりもする。
てのをブログネタから選んでみたら、運営の人と丸被りでワロタ。
『グラン・トリノ』を観られたそうな。
昨日の記事 の時に、ついでにブログネタで書いておきゃ良かった……。
まぁ悔やんでも仕方ないので『グラン・トリノ』についてもう少し語ってみようじゃないか。
最近のアメリカ映画の傾向なのかよくわからないけど、アメリカの抱える問題の縮小版みたいに見せている部分が多いんだよね。『ダークナイト』とかもそうだったし。物語の引き込み役としてそういうテーマを設定してるのか、それともその問題をこそ語りたいのか。ちょっと判断が付きにくい。
でも『グラン・トリノ』は特にその傾向が強いし、問題=テーマ=語りたいことなんじゃないかと思います。
デトロイトは車産業で栄えた町だけど、今は外車(もちろんアメリカからしての外車)が幅を利かせているらしい。
主人公ウォルトはフォードの工員でグラン・トリノも彼が製造工程を受け持っていたらしいが、息子が乗ってるのはホンダだ。
アジア野郎の車に乗りやがって……と実に苦々しそうなウォルト。
実際デトロイトでも衰退する車産業によって治安も悪化し、更に輸入車の根元たるアジア系人種(正確には日本人だろうが、たぶん区別は付かないだろう)に対する怨嗟の念が強い時期もあったらしい。
『ロボコップ』なんかもデトロイトの治安が悪化したからロボット警官が必要、って設定だったしな。
主人公ウォルトも元をたどればポーランド移民の流れなんだろうが、それ以上に誇り高きアメリカ人であり、輝かしかったアメリカが忘れられない。新車同然のグラン・トリノはその象徴だ。
だから黒人やヒスパニックやアジア人が流れ込み、家の芝生の手入れもしない現状、また白人が彼らに押されて肩身を狭くしている状況が不満でならない。
強く、たくましく、優しかったあのアメリカ人たちの後継者はもう居ないのか?
そう考えている彼の拠り所は、床屋のイタ公と飲み仲間くらいしかない。
そんな時、スーの気丈さやタオの実直さを知る。
彼は知ろうともしなかった移民たちの精神に触れ、初めて単純な民族レベルではなく、個々人としての価値を認めることになる。それは、彼自身の解放でもあったと思う。
神父の描き方が、そのまま彼の解放を示しているようにも見える。
当初は妻の遺言からやって来た神父に散々文句を言い、とりつく島もない。
また神父自身も気安く「ウォルト」と呼びかけ、聖書解説のような紋切り型の言葉だけを語り、少し嫌な印象を与えるキャラクターとして描かれている。
僕が最初に重ねたのは『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の新興宗教家だった。
しかしウォルトとの付き合いを深めるにつれて、神父にも変化が訪れ自分の言葉で語り始める。
ウォルトも相手の言葉を否定するものの「今度は銃に弾を込めてやって来たな(自分の言葉で語ってきたな)」と認めるような発言もする。
そしてスーの襲撃受験の直後、彼はウォルトの元にやってくるが、このときは自ら「Mr.コワルスキー」と呼びかけ、復讐についての考えを語る。ここには既に型どおりの宗教家ではない神父の姿が示される。
そしてウォルト自身も「ウォルトでいい」と、ファーストネームでの呼びかけを許す。
苦悩のさなかではあるが、お互いが歩み寄った結果としての関係性が構築されたような描写だ。
そしてついに、ウォルトは拒否していた教会へ懺悔に訪れる。
ただし、懺悔するのはあくまで日常的な事柄にすぎない。本当の懺悔はしない。
ただ「息子との折り合いがつかない」と語ったのは、彼なりの本心ではあっただろう。
タオとの関係は擬似的な家族そのままなのだから。
本当の家族による欠落を埋め合わせているための関係とも取れる。
ウォルトにとって真の懺悔は、やはり『息子』タオの前で行われた。
キチンと懺悔室よろしく鉄格子や金網越しの会話であるのが印象深い。
その内実は昨日の記事に詳しいから省略するが、教会から去るときに復讐を実行するんじゃないかと心配する神父に、ウォルトは
「私の心は安らかだ」
という。
観客もこの時点では「普通に銃で復讐をするんだろう」と思っているのだが、ラストを観た後だと全く違う意味合いが汲み取れる。また神父も心配が尽きずに、わざわざ警官とチンピラの家を張るが、結局警官が帰還するのと一緒に連れられてしまう。
最後にはウォルトの葬式。生前の会話で培った神父自身が語る言葉が出てくる。
普通、こういった映画では神父がずっと否定的に描かれたりするのだが、『グラン・トリノ』では神父もまたウォルトと同様自分の殻を破る存在として、必ずしも否定されないようなキャラとされているのだ。
また『物語中明確な役割を持った若い白人』というキャラクターは、この映画では結構貴重な存在だ。
テーマ上、ウォルトの魂自体は異民族であるタオが受け継いだが、神父もまたその薫陶を受け次代を担い同年代の移民と関係を築く白人の象徴となっているんじゃないかと思ったりもする。