表題は「私は何故物語を求めるのか」とした方が正確かもしれない。
あくまで自分の主観をある程度普遍性を持つ物として語るものにすぎないので、実際は多くの人から懸け離れている可能性も高い。ともあれ、すこし書いていこう。
ちょっと気になる言葉がある。
「アニメは楽しめればいい、どんな作品でも楽しければそれでいい」
というもの。別に個々人としての意見を引っ張ってきた訳ではない。
ただ、そう言う人も結構居るようだ。
たしかに相違ないのだが、どうにも引っ掛かってしまう部分がある。
それは何処なんだろう、と色々考えつつこの文章を書いている。
なおアニメに限定した話ではなく、フィクション(物語)全般として語っていきたいと思う。
理由は単純で、私はアニメも好きだが特撮映画小説漫画もおしなべて好きだからだ。
まず「楽しみ」という部分について。
確かに物語を観るのは楽しみなのだろうし、楽しくもないのに観るというのはやや奇妙な話だ。
しかし、ここで気になるのが「何故楽しむ方法として物語を選ぶのか」
私は友人と雑談なぞしているのも楽しいし、ドライブもいろいろ計画立てながらやっていくとなかなかに面白いものだ。また買い物なんかも結構好きだったりし、食にあまり興味はないが美味しい物を食べて気分の悪くなろうはずもない。
もちろん、それらが好きではないそれらが思うように出来ないという単純な理由を持っている人も居ると思われる。
が、大抵の人ならば好みは一つではないだろう。
では複数ある娯楽と物語の差別というか、物語に求めている物はいったいなんなんだと考える。
物語にこそある特異性は何か。
それは「驚き」や「凄い」という感情なんじゃないだろうか。
とは言え「驚き・凄さ」だけでは限定的だ。
「ハッ」とさせられる。考えさせられる、というようなものか。
アイデアとしてのワンダーは特にミステリやSFに求められるが、この場合はそう狭い範囲のものではない。
人物造形、心理描写、掛け合いの妙、テーマ性、歴史考察そういったものを全て引っくるめての話である。
村山由佳の青臭く甘ったるいノロケ的会話とか。
『プラネテス』の人間関係の緻密さやそれぞれが持っている独特な思考とか。
浅田次郎の歴史上の人物に対する明らかに無理めな善意の解釈とか。
『ダークナイト』のヒーロー物のパターンに逃げないで徹底させたテーマ性やリアリズムとか。
ロバート・J・ソウヤーのメチャクチャだけど一貫してる展開とか。
『うしおととら』の熱さと様々な伏線が一気に収斂していく様とか。
京極夏彦の詭弁ギリギリの長ったらしい論理学とか。
『大神』のラスボス戦で示される今までの旅の意味とか。
田中芳樹の皮肉たっぷりな世の中(歴史)の見方とか。
『ウルトラマンメビウス』のウルトラ史を集結させたからこそ出来る感動とか。
そういう常日頃はあまり存在しない物、架空だからこそ存在出来うるものを求めているのじゃないか、と。
だから私は
戦国BASARAの明らかに頭の悪いキャラクター
や、
真マジンガーの狂ってるとしか思えない第1話、
カブトボーグのアホとしか言いようがない超展開
を絶賛してしまうのだ。
これらは、全く論理的ではないがそれ故に超絶している。
だからこそ「これ作ったヤツぜったいどうかしてるよ!」と思いつつも万雷の拍手を送りたくなるのである。
『みなみけ』や『けいおん!』といった作品を最近観たのだが、「私はこの物語を必要としていないし、この物語もまた私を必要としていない」と思った。
作品自体が悪い訳ではない。むしろ良く出来ている。
だが求める物が違うんだろう。
少なくとも私は、何かしらの異常さを期待して物語を観ているのであり、それこそ私が他の娯楽ではなく物語を求める理由なのだと思う。
さてもう一つ。
「どんな作品でも楽しめればいい」
これだ。
これもまた、一応は納得してしまいそうになる。
だがどうだろう。
修行を積んだコックが丹精を込めて肉や野菜を選別し、パテを整え、パンズに工夫を凝らし、味付けにも注意を払ったハンバーガーとマクドナルドのハンバーガー。
こられは共に「美味い」と言えない事もない。
もちろんマックが嫌いな人も居るだろうが私個人は寧ろ好きだ。
しかしマックが好きだからと言って前者と後者を共に「美味い」という同一のカテゴリに入れてしまって、「どんなハンバーガーでも美味いからそれでいい」と語ってしまうのはどうだろうか。
物を食べる側の人間として恥ずかしくは無いだろうか?
工夫してくれたコックに申し訳ないと思わないだろうか?
もちろん、そのコックが味音痴か自分との味覚が懸け離れた人であって自分にとって「不味い」という可能性はなきにしもあらず。
それは仕方ない。
個人の感想として不味いのだから、そう表明すればいい。
コックが特異なのか食べた人間が特異なのか、統計でも取らない限り客観的な判断は難しい。
だからコックとして不味いといった客の反応を受け入れるかどうかは当人次第の裁量に任される。
ただ、ここで問いたいのは
受け手として視聴者として読者として観客として
「しっかり作った物」と「適当に作った物」
をロクに考えもせずに口に放り込み十把一絡げに「美味い」の一言で済ませてしまうかどうか。
作る物のプライドがあるように、受ける者のプライドがあるべきじゃないか。
分かり難いかもしれないが「好き」という尺度はまた別だ。
他人に「不味い」と言われようとも「いや、ここが良いんだよ! 俺は好きだなぁ!」と言い切る姿もまた受け手としてのプライドの発露と言える。
また、腐った魚とくさやは似て非なる存在である。
くさやが好きな人と、腐った魚と普通の魚の区別が付かない人は全く別物だ。
それとは違って、ただ頭も廻らさず享楽を享受するだけ……という姿勢はどうなんだと言いたくなるのだ。
正直、竹Pアニメの絶賛層には少しそういうニオイがする。
「種」や「ギアス」や「ガンダム00」は、僕からしてみればファンこそが怒って然るべき作品なんじゃないかと思うのだが、どうもそんな気持ちは起こらないらしい。しかも欠点を認めた上で肯定するのではなく、そもそも欠点を認めないような傾向にある。物語には無いところまで作って反論してくるからね。
どうなんだろうなぁ、という気分になってしまう。
まぁ楽しんでいる事は確かなので、
プライド持てよ!
と思うけど直接には言いづらいし、結局は本人次第なので余計な事を話して荒立てるのも嫌だ。
だから最終的には、こういう場所で書いてしまう訳だな。
頭を廻らして物を観たほうがいいんじゃないか。
くだらなくてもいいから、少しばかりのプライドを持った受け手になるべきじゃんじゃないか。
その上で好きなら好き、嫌いなら嫌いでいい。
きっちり自分の判断と意志としてそれを語れるなら。
もちろん、私だってしっかり実行出来ているなんてとても言えない。
ただ心掛けようとしているかどうかでも、違いは自ずから出てくるはずだと信じている。