久しぶりである | リュウセイグン

リュウセイグン

なんか色々趣味について書いています。

長文多し。

先日、某人気ゲーム原作のアニメ本編が完結した由。


しかしながら観た事も無い私が言うのもアレだけれど、話を聞くにどうにも違和感を覚える。
観たことが無いのにも関わらず語るのはそれなりの理由があって、ほぼ同じ形で放映された(要するに前作)アニメが誠に困った代物だったからだ。


前作も、ゲームは非常に人気がある。そんな訳で見始めたもののどうにも要領が掴めない。難病もので感動させたいのは分かるが、正直言って首を傾げたくなるようなファンタジー展開なのだ。いや、ファンタジーならファンタジーで構わない。


が、通常は現実的な世界観なのにいきなり感動シーンの前後説明がファンタジーになる。
どうせなら完全なるハイファンタジーにすればいいと思うのだが。


当初から付いていけない感はあったのだけれど「最後まで観れば分かる」とか言うネット上の声に押された。
まぁ、これは尤もな話だ。最後が無ければデスノートの映画も駄作なのだから。しかし残念ながら最後まで観ても感動もしなければ面白くも無かった。


どう考えて良いか戸惑う、に近い。どうやら細かい伏線やらそれに示される意味がスバラシイと言うのだが、ぶっちゃけそういう部分に限って現実から乖離したファンタジーだから「で?」っていう。
仕方無しに考察サイトまで廻るが、やはり納得は出来ない。そんな自分へのネットの声は「分からない奴はアホ」か「原作ゲームやれ」だ。


こと此処に至ってはこちらにも主張する権利があると思うのだが、分かっても全然大した事に思えないから感動しないのである。そして約6時間を費やしてアニメを観た結果「ツマラナい」と感じた人間に対し、さらに数時間以上かかるであろう原作ゲームをやれとは何事か。


自分の意志で決めたなら兎も角、もしゲームやってもツマラナかったら誰が責任を取ってくれるんだ……と。
それで、もうコレ系の作品を観るものか、と誓った。
今回の作品は前後合わせて50話近くあるので、尚更だ。従って語るのも分を弁えないことであるかもしれん。
ただ、やはり終盤の展開を聞くに一言いいたくなってしまう。


物語終盤では、ヒロインが出産と共に死亡し、主人公は5年余りの絶望を漸く乗り越えて娘と親子の絆を結んだと思いきや子供も同様の病で死ぬ。
主人公はここに至ってヒロインとの出会い自体を後悔し、時系列が出会いのシーンまで戻る。


主人公は最終的にヒロインに声を掛ける。
すると奇跡(他のヒロインとのエピソードを攻略する事で集められる光の玉)によってヒロインと娘が生きている人生を歩める、というものである。


いい話ではある。しかし同時に都合がいい話でもある。


主人公が出会いの選択を再度求められるのは良いとしよう。
ここでは主人公が悲劇の結末を弁えつつも、ヒロインとの時間を重要に思ってこその決断を求められる。
ファンタジーであれども、この心情というのは分からなくもないし決断としては尊いと言える。


しかし、このエンディングを迎えた後に同じ選択を迫られたとしたら?


当然、主人公はヒロインとの出会いを選ぶだろう。
だって何一つ悪い事が起きないんだから。
決断にすらならない。


個人的にだが、ここは何度も主人公の覚悟が試される箇所でいいんじゃないのかと。


従ってここではヒロインの死を揺るがさず、娘を生かす方向ではダメだったんだろうか。


テッド・チャン『あなたの人生の物語』は、まさにそういう物語だった。
ETの文字を解読しようとしていた女性学者は、それを行う内にETの独特の価値観を会得してしまう。
彼らは時間の流れを同時に知覚する事が出来る。つまり女性学者も自らの人生に於て、まだ産まれていない娘がどのような形で産まれ、どのような形で命を落とすかまでをも悟ってしまう。
しかしながら本人はそれを変えるように奔走するような事はしない。
どのような形であってもそれは『あなたの人生の物語』であるのだから。


たとえどういった最後を迎えるにせよ、それまでの人生が否定される訳ではない。不幸が待っていたとしても、大切な人間との時間は消えないし、その価値も否定されない。だから素晴らしいのだ……と言うところに、少なくとも私の感動は存在する。
決断したら完全ハッピーな結末は、都合良く自らの思い通りに世界が動いた喜びかもしれないが、主人公はある意味道化である。


無くしうる悲劇を負わされたと言えるのだから。
しかしヒロインが死を迎え、娘がどうなるか分からない所から、娘だけは生きられる展開になるならば主人公の悲壮な決断こそが感動のポイントであり、それによってこそ娘も生きると言える。


また娘も単に回復するのではなく、現実に於ても一定の行動を行い(今まで絆を紡いできた人達との強力)その上で条件を整えて奇跡を起こした方が納得はさせられるのではないかと思わないではないし、大家族というテーマにも沿う。ヒロインの死は変えられなくとも、娘は生きて命は繋がれるのであるから、当然無駄な命ではなかったともいえる。


どうも両者が死んでから再び生きるのでは、母子の命が感動を作り出す為に弄ばれているような気がしてならない。
もちろん、作品というのは多かれ少なかれ擬似的な人物の死を描く事でカタルシスを得ようとする傾向にはあるし、なべてご都合主義的な産物なのだが、こう極端だと作り手の腹まで透けてしまうようで乗る気になれない。
善意あるファンの方々のみならず、もう少しひねた層までをも騙し込む手管を使ってlくれても良さそうなもんだ。


と、これを書くに当たり様々な考察やら何やらを廻ってみたのだが面白いことに「これは○○(哲学書であったり宗教書であったり)こうある通り、こういう意味を含んでいるんだよ! だからこうなるのは必然なんだよ!」みたいに意気込む……割にはそれぞれの解釈は相当差がある。
しかし同時に納得してしまいそうな説得力をも持っている。


つまるところ、KEYは(言っちゃった)プレイヤー・視聴者の前に万華鏡を置いているのでは無かろうか。
様々な要素こそ示せども、決定的な解釈をさせずに読者に放り投げて好きな形を見出させる。
『2001年宇宙の旅』や『エヴァンゲリオン』でもお馴染みの手法だ。これらが上手く嵌れば極めて有効だというのも、例に挙げた二作が未だに語りぐさにされる事からも明白だろう。


あれだけ不合理な病や世界観の一切を説明していないと言うのも、読者の解釈を想起させる為ならば得心がいく。作り手が本当に中身を考えているのか居ないのかは当事者のみぞ知る……といった所か。