世間が前田敦子卒業で騒いでいる中、このニュースが飛び込んで来ました。
【石井琢朗引退】
長年のベイスターズファンの自分にとっては偉大過ぎるビッグネームですよ。
自分が大洋→横浜になってファンになった当時は期待の若手と言った所でしょうか。
巨人の緒方と盗塁王を争っていましたが、シーズン終盤に入院(盲腸だったか?)。
しかし、病院を抜け出して代走として出場。
見事、盗塁を決め緒方と盗塁王を分け合うという事がありました。
元々、投手として入団し1年目に早くも勝ち星をあげるも自身の決断で野手転向…と言うのは有名な話ですが、もう一つ大きな転機は大矢監督時代。
近藤昭仁監督時代は3塁手でしたが、大矢監督が大コンバート(ローズ→三塁、石井→遊撃、進藤→二塁)を敢行。
ローズの守りの負担を軽くするのが主な目的でしたね。
この時に一番心配されたのが石井の遊撃コンバートでした。
結局、ローズが不調で二塁に復帰。
怪我がちな進藤も三塁で落ち着く形となりましたが、石井を遊撃にしただけでもこのコンバートは成功だったのではないかと思います。
さて、90年代は池山→宮本、川相→二岡、野村、松井稼、小坂と多彩なショートがいましたが、やっぱり自分の中では石井がNo.1なんですよ。
粘りのある打撃、たまの一発、守備も元投手だけに強肩。走塁は説明不要。
全てをハイレベルに備えていました。
今でも思い出す場面が2つあります。
共に98年。
巨人と13ー12の壮絶な乱打戦があった前日。
9回表、横7ー5巨。
マウンドにはもちろん大魔神・佐々木。
当時の横浜ファンなら大魔神の【儀式】を見て終了なのですが、2死後から石井がまさかのエラー。
そこから、2点を失いまさかの同点に。
その裏、石井がサヨナラヒットを放つも、セカンドベース付近で泣き崩れる。
ヒーローインタビューは謝罪ばかり。石井琢朗と言う人間の強さと弱さを垣間見た気がしました。
続いては98年の日本シリーズ。
相手はパを連覇した西武。
こちらは駒田と阿波野以外は初体験の日本シリーズ。
第1戦、初回にピンチを迎えるも何とか無失点に抑えた1回裏のベイスターズの攻撃。
打席はもちろん石井琢朗。
そして、いきなりセーフティバント。
そして盗塁。
当時、この時点でシリーズをもらったと直感しましたもん(笑
初の日本シリーズで普段通り、いや、普段以上のパフォーマンスが出来た事でチームが波に乗れたんじゃないかと。
その後、2ー2のタイに持ち込まれるも、5戦目にマシンガン打線大爆発で、その勢いで6戦目も勝ち、日本一に。
その後、プライベートのゴタゴタや怪我で一時期スランプになるも、遂に2000本安打到達。
駒田も達成しましたが、生え抜きでは松原さんに続く2人目でした。
2000本達成の前日、一打出ればサヨナラで2000本を決めるチャンスにフォアボールを選んだのは痺れましたね。
そして、石川雄洋の台頭やチームの方針もあり広島へ…。
自分が雄洋を入団時から応援しているのは石井を抜けるんじゃないかと期待していたからなんですよ。
…正直、レギュラーは奪った形だけど、何とも微妙な感じに(9笑
ザっと振り返りましたが、まだまだ語り尽くせない話なんていっぱいあります。
自分の青春の1ページに間違いなく刻まれている選手が引退してしまうのは寂しいですが、一言、ありがとうを伝えたいです。
9月23日、ハマスタで最後の広島戦。
何かあったら行くかも。
駆け抜ける
スタジアム
君の勇姿
明日の星を掴めよ
石井その手で
かっ飛ばせ石井!
【かっ飛ばせ琢朗】に変わってからもたまに間違って【石井】って歌っちゃう708