月白の水平線 主人と書生の休日5
甘味処『マハシュトラ』は、
ティータイムにはまだ早い時間にも関わらず混み合っていた。
「いらっしゃい、ま、せ……!?」
私と伯爵が店のドアを開けると、
店員の女の子が迎えてくれたのだが、
その笑顔が明らかに驚愕の表情になるのが見て取れた。
無理もない。自分たちを統べる領主が、
まさか来店するとは夢にも思っていなかっただろう。
「おおおお館さま!
と当店にどのようなご用でしょうか!?」
「ああ、驚かせてしまってすまない。
客として来させてもらっただけなんだ、心配しないでくれ」
「そうなんですね、ありがとうございます!
ででは、こちらへどうぞ!」
かわいそうなくらい動揺している店員さんに対して、
お館さまは自身も動揺しているであろうに、最大限紳士に振る舞われた。
それでこそ男というものだ。
店員さんは、怯えながらも私たちを席に案内してくれた。
お館さまは、甘味処にいる全ての女性から、
きらきらした目で見つめられていたが、私には、
「お館さまの後ろにいるの、誰かな?」
「白髪だし、お館さまのとこに来られた王女殿下じゃない?」
「なんか正直、姫さまって感じじゃないわね」
「もっとこう、お姫さまお姫さまっ! って感じかと思ってたけど。
むしろ男前よね? かっこいいわあ」
と言いたげな視線が向けられた……だけでなく、
実際にこのような囁き声が聞こえてきた。
お姫さま要素が微塵も欠片もなくて申し訳ない限りだが、
諦めてもらうしかない。
というか、男前とはどういうことだ。
深く考えないようにしよう。
だが、伯爵に同伴していることについては、嫉妬されていないようだ。
ありがたいことだ。女の嫉妬は鬱陶しいことこの上ない。
店員さんに案内された、一番奥まった場所にある窓際の席は、
二人で座るには広すぎたが、
お館さまがお越しということで、
居心地のよさげな席に通してくれたのだろう。
窓からは暖かい日射しが差し、とても心地よい。
テーブルと椅子には、
お揃いの花柄の布で作られたクロスとカバーがかけられている。
淡い水色を基調とした花々から、清楚な雰囲気が漂っている。
一輪挿しに咲く白い花もとても可憐で、
乙女のか弱さ、儚さを具現化しているようにも見える。
一輪だけ飾られているところが、これまたよい。
窓を飾るレースのカフェカーテンは淡いピンク色をしており、
縁を彩る花の刺繍もとても繊細で美しい。
自分の部屋の窓にも欲しいくらいだ。
そして、窓際にはとてもかわいらしいぬいぐるみが、
所狭しと飾られていた。
私の『ひつじのエリー』ほど巨大なぬいぐるみはないが、
かわいさでは負けず劣らずの精鋭たちが、
愛くるしい瞳でこちらを見つめている。
リスにウサギ、イヌ、ネコ、タヌキ、キツネ、
トラからクマ、ゾウ、果てはサメやクジラまで、
あらゆる生物が一堂に会している。
しかも、どれもこれも、とてもかわいいときた!
サメのぬいぐるみなど見たことがなかった私は、
思わず歓声を挙げそうになったのを、
必死で堪えなくてはならなかった。
店員さんが下がった後、
伯爵は椅子に腰を落ち着けると声で呟いた。
「すごいところだな」
「ほ、本当ですね、とても素晴らしいです」
可愛らしいぬいぐるみのせいで、顔が緩んでいたのだろう。
私の顔をじっと見つめた後、伯爵は憮然とした声音でおっしゃった。
「嬉しそうだな」
「当然です。ここに来るために、今日まで生きてきたのですから」
「そうか……それはよかった」
伯爵の声からは、
全くそう思っていないであろう感情がだだ洩れだった。
健康的善人面は、完全になりを潜めている。
精神的ダメージが蓄積されているようだ。非常によろしい。
私と伯爵はしばらくメニューとにらめっこしていたが、
やがて、先刻の店員さんではなく、
店長さんが直々にオーダーを取りに来てくれた。
私はすぐに注文できたのだが、
伯爵はあまりの選択肢の多さに困惑している様子だった。
店長さんが下がると、伯爵は静かにため息をついた。
「最近の甘味処は、凄まじい勢いで進化しているのだな」
「そうですね」
ここまで細かく注文できる甘味処はあまりないと思うが、
適当に相槌を打っておく。
「カシルダですらこうなのだから、
王都の甘味処はより進化しているのだろうな」
メニューを凝視したせいで目が疲れたのか、
伯爵は目頭のあたりを指で押さえている。
「王都に行ったら、甘味処を調査しに行きましょうか。
お付き合いしますよ?」
「遠慮しておくよ」
私の大盤振る舞いな申し出に対し、伯爵の返答はすこぶる早かった。
そして、あたりを見回すと、再び音もなくため息を漏らした。
相当堪えているようだ。
よくよく考えれば、伯爵ともなれば社交界で女性と交流があるだろうし、
乙女耐性があるのではないかと、少々懸念もしたのだ。
だが、この完全に打ちのめされているご様子から察するに、
乙女耐性は皆無と言ってよいだろう。
店に入るまでは普通に元気だったのに。
外観がそれほど乙女乙女していなかったから、
まんまと騙されたといったところか。
私は助け船を出して差し上げることにした。
「ところで、あれ、読みましたよ」
「あれ、というと……?」
伯爵の反応は、いつもより鈍かった。
相当乙女空間にやられているようだ。
「あれです、『最後の楽園 ネルドリ』です」
「……ああ!」
執務で馴染みのありすぎる固有名詞を耳にしたからだろう、
伯爵はやや元気を取り戻した。
「で、どうだった、感想は?」
「どうもこうもありませんよ」
およそこの可憐な空間でする話ではないが、やむを得ない。
私もあれを読まされた苦痛を吐き出して、
すっきりさせてもらうとしよう。
私からの恩を仇で返すようなことをのたまい、
「あちらさんも、
本当にろくでもない大総統もいたものだ。
そして残念なことに、つっこみどころはまだある。
「それと、思ったんですけど」
「なんだ」
「あの国に行ってわが国のありさまを恥じた、みたいに書いてましたけど、
仮にもわが国の貴族が書いていいことですかね。
私は全く気にしませんけど、下手をすると不敬罪に当たりませんか」
そう、誰も覚えていないと思うので再掲するが、あの本の序章に、
「よくはない。
だが、わが国は言論に関してかなり寛容だからな」
確かにわが国は、王国にしては言論の自由が保障されていると思う。
そうでなければ、仮にも王族の私に、
平民が後ろ指を指すなんてことはできないだろう。
いくら王族たちが率先して私を貶めていたとしてもだ。
「そうですね。
ですけど、他国なら下手すると不敬罪で処されますよね」
「そうだな、それこそあの国とかな」
王国であるわが国よりも、
全ての民が平等であるはずのネルドリの方が、
圧倒的に言論統制されているのだ。
しかも、そんな国の印象を上げるための本を、
わが国の貴族が書いている。
皮肉という言葉を越えた状況なことに気がつくと、
気が滅入ってきた。
伯爵の声にも、自嘲の念が込められていた。
「本の発禁処分くらいあってもおかしくないとは思うがな。
もしかすると、あの国とのよくわからない繋がりのせいで、
見逃されているのかもしれない」
「美女とか美女とか美女とかの、貢ぎ物をたくさんされてますものね」
「なぜ美女しか例えに挙げないんだ、
他にも貢がれているものはあるだろうが」
伯爵のおっしゃることはわかっているが、
軽口を叩かなくては、やっていられない気分になってきたのだ。
だが、口に出してはこう答えた。
「完全に好みの美女をあてがってくるというのが衝撃強すぎて、
他の例えが浮かばなかったんですよ」
「確かにあれはすごい諜報能力だ。私も気をつけなくては」
安心してほしい、ネルドリさんはあなたには女性を貢がない。
ネルドリにも、貴重な美女を派遣する先を選ぶ権利がある。
甘味処に入ったくらいで、人生終了した顔をしている初心な男など、
理想の極上美女をあてがってやるまでもなく、陥落できるだろう……
そう言ってやりたくなったが、さすがにかわいそうなのでやめておいた。
些末なことに思考を割いたおかげで、
気分が持ち直せたことには感謝しておく心の中で。
しかし、それほど探ってほしいのなら、ネルドリさんの代わりに、
私が理想の女性像を聞いてやろうではないか。
「そういえば、閣下の好みの女性のタイプ、聞いたことがないですね。
どんな女性がお好みなんですか?」
「それは……おっと危ない、極秘事項だ。
いかんいかん、危うく口を滑らせるところだった」
こやつ、またも喧嘩を売ってくるとは。
「私があの国の諜報員だとでもおっしゃりたいんですか?
さっきから、人に喧嘩売るのやめてもらって」
私が口を閉じたのは、
神々しいパフェをお盆に乗せた店長さんが、
こちらに向かってきたからだ。
あの彩りは間違いない、私と伯爵が注文したパフェだ。
やがて店長さんは、
恭しく私たちのテーブルに素晴らしいパフェを置いてくださった。
「こ、これは……!」
「芸術ですね」
目の前に降臨したのは、まさに乙女の夢を具現化した甘味だった。
私が注文したのは、
フランボアーズとオレンジのムースケーキを乗せたパフェだ。
木苺と板状の上品なチョコレートを乗せたケーキを、
生クリームと種々のベリーたち、
そしてバニラとチョコレートのアイスクリームが支え、
一番底にはマシュマロとチョコソースが待ち構えている。
伯爵のパフェは『さっぱりしたものを』というご希望を、
忠実に叶えたものだった。
アラザンを上品にあしらったメロンショートケーキの下に、
バニラジェラートとメロンシャーベット、生クリームが層をなし、
フルーツとメロンのクラッシュゼリーが最底に鎮座する。
ケーキの隣にウエハースと角切りのコーヒーゼリーを添えることで、
お口直しへの配慮も万全だった。
私と伯爵は、眼前の迫力ある甘味に言葉を失っていたが、
先に口を開いたのは伯爵だった。
「これは……芸術だな」
「おっしゃる通りです。
食べるのがもったいないくらいですが、いただきましょう」
「そうだな」
私たちは厳かに手を合わせると、
神妙な面持ちでスプーンを手に取り、
終始ほぼ無言で極上の甘味を堪能した。
パフェの感想は言うまでもない。非常に美味しかった。
あの美味しさを表現する語彙力がなく残念だが、
パフェの構成から味を想像してもらいたい。
さすがは『いまカシルダの女子が一番行きたい甘味処』の傑作だった。
伯爵の胃袋具合は心配するまでもなかった。
私よりも早くパフェを食べ終えると、
「ケーキからフルーツ、冷菓まで、一皿で楽しめるのがいいな。
今度料理長に作ってもらおうかな」
アラザンの一粒も残さず綺麗に完食した器を、
残念そうに眺めながらおっしゃった。
「そうですね。ですが、ここでしか味わえないからこそ、
ありがたみを感じられるのかもしれませんよ?」
私のもっともな一言に、伯爵は一瞬たじろいだが、
「そ、そうかもしれないが、
一度くらいは作ってもらってもいいんじゃないか?
何度も作ってもらうとなると、
こちらの商売を奪うことにもなるし、よくないのはわかるが」
と反論なさってきた。
確かにこの乙女空間に再び足を踏み入れるのは、
伯爵にとって勇気のいることだろう。
私はそうですね、と相槌を打つと、最後のマシュマロを口に入れた。
チョコレートソースにまみれたマシュマロを噛むと、
口の中一杯に幸せが広がった。