「虚面の逃避」第3分冊 早乙女裕之 | 絶筆の恐怖

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「虚面の逃避」第3分冊 早乙女裕之

第3編 未来 

 人間とは矛盾を抱えながらも敢えて意識しないのであると思う。それが人間の心理構造の闇なのである。私はその心理構造の外延を美徳と理解してきたのであると思う。人間の美徳とはまず自愛という拒絶の内包に向けての自己の全否定であると思う。他人はそれを偽善であると看破するに違いないならば私はそれを進んで実行しようではないかと思う。私は馬場妙子を対象と考えたに過ぎなかったのではないかと思う。彼女を診察の対象であると自己で肯定したことを原因として彼女の内包をただ見過ごしたのではないかと思う。私には意図があったと思うし、その意図が醜く過ぎるほどに客観であったのではないかと自戒できるようになったと思う。ならば私に残された方法は馬場妙子に自分を表現することではないかと思う。そこに真実がないかもしれないと畏怖だけしていては埒など開かぬものなれば私は自己の埒を彼女に提供することではないかと思う。私は行き先を既に決定し過ぎたのであると思う。私が三浦君から初めて学んだことはもしかすると感情という内包に自己をおくことではないかと思う。仮に感情が自然という溢れんがばかりの心の流れであるならば私は馬場妙子に人間の方向を与えることだと確信できたと思う。後は馬場妙子が私が与えた方向に何を探るかは彼女の問題なのであると思う。人間の美徳とは人間の良し悪しではなく「心の拡がりー気丈ー」であると思う。私は医師であった辰野達治の都合を知る術を自己に対して評価付けていないという意味で辰野からは既に解放された身であると思う。私の中の悪魔とは縁をきった筈である。すなわち私は自らも解放したところの純粋である。人間はその無垢な部分から人間の本質を盗み取る手段としては本来において人間は純朴であったはずなのであると思う。人間は何時しかその純朴さに溺死した虚偽の権化となりていないかと自己を呪う術もないと思う。私はそれを絶対だとは思わぬ質であると思う。私は全ての評価とは縁を切ったのである。私は自己の内面の深奥に潜むであろう人間の欲を限りなく削ぎ落した単なる老木に過ぎないのであると思う。だからと言え私が人間の本質を手繰る意図であるところの自由な意思を自己に巻き取ったことは露ほども意識から遠ざかっていると思う。人間の認識の本質であるところの覚悟まで否定する余地もないと思う。その否定から人間は自己の疚しい部分を嫌と魅せ付けられるのでありそれが人間の自省であると思う。人間は自省を断念する勇気などないと私は思う。それは人間が飽くまで人間に憑りついたところの魔物であると思う。辰野は10年前に魔物に評価を委ねることに忘却したと思う。その反動として今の辰野の存在があると思う。人間の意味とは実はその反動に因って放任されるべきなのであると思う。人間は悪魔と対峙する必要があると思う。辰野は三浦紀子の反映として人間の方向を探る意図を懐いたことはここに神の摂理に感謝するべきであると思う。そのことによって辰野は馬場妙子が言う「私に矛盾を下さいー欲ー」と謂わしめた理由をいつかは理解することが可能ではないかと私は思う。私は人間の欲と情は区別されるべきであると思う。人間の欲とは願望の顕れとしての傲慢な対象の評価であり底沼であると思う。それに対して情とは「人間の人格の方向づけを行なう「ところー理想ー」の評価の対象であると思う。