とはいえ、ネタバレは避ける形で、多少手短に。
再開第一話を読んでみたところ、結局、本来ならば『修羅の門 ~5部(最終部)~ 』になっていたであろうエピソードを踏み越え、九十九の新たなる『神への喧嘩売り』が始まるようです。(ある程度、期待を込めた自分の予想に当て嵌ってました。)
「“第弐門”という看板に見合ったスケール(正確に表現するなら連載期間)になりそうな気配でひとまず安心した」
というのが正直な感想。
で、お話自体については、まあ触れませんが、『第弐門』の今後のテーマの一つになりそうかなと思う事だけをば、ちょろっと。
再開に当たってインタビューで作者が触れていた
「『修羅の門』第4部終盤頃から進化を遂げている新たな格闘理論とのギャップ埋め」
から飛躍した考えなのですが、現代の主流の一つと考えられる総合格闘(以下“MMA”)との対戦をメインに据えて、
『“圓明流”という“専門知”に、
“MMA”という“集合知”は
どこまで追いつけるのか』
(長い年月で練り上げられた“圓明流”という『専門知』に対し、“圓明流”登場後の短い期間※作中4年※で“MMA”(と色々な情報の融合)という『集合知』がどこまで迫れるか)
というのが、一つのテーマになってくるかな、と。
集合知とは、「複数人の知恵の集合『wisdom of crowds』」(他に「統計的なデータ。多数決の結果。『Collective Intelligence』」という意味もあるらしいですが、今回はそっちは無視)とあり、
『ひとつの課題に取り組むとき、超優秀なひとりより、それなりに優秀な何人かの集合が複数の視点を上手に使って取り組む方が高い成果を生むことができる』
という考えがあるそうです。
ま、格闘技において、人間の身体は構造上多少の差違はあろうとも大概同じでありますので、術理についての到達点は同じになるでしょうから、集合知が専門知より優れると言う事は出てこないと思いますが(それがあるので、『追いつけるのか』という表現に留めております。)。
第二部にて『飛燕十字蔓』と『飛び付き十字固め』の違い(頭部を蹴るか、首を刈るのか)を語ることで、“圓明流”と現代の格闘理論の差違を表現していたと思いますが、第弐門で、そこについての差違を作者の理論および現代格闘に対する進歩への願望で埋めていく、そんな気がしてます。
(とはいえ、最終的には陸奥が勝つ話になるのでしょうが。)
あとちょっと付け足したい事もあるのですが、まとまりつかなくなりそうなので今回はこれくらいで抑えて、近日中に続きを書きたいと思います。
(実のところ、10月7日からずっと第一話感想については取り掛かっていたのですが、まとまりつかずにここまで遅れました。なんで続きがいつになることやら、と思わずにいられませんが…)
ところで、再開第一話目を最初読んだ時に
「これ、なんて『真◯爆ぜる!』?」
って思ったのは、内緒です。
『修羅の門 第弐門』(巻之一)※2011年5月10日追記
修羅の門 第弐門(1) (月刊マガジンコミックス)/川原 正敏
