資本主義にグーパンお見舞いするギャル本(資本主義と戦うギャル)発売が近い件 | 門前小僧、習わぬ今日を読む

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反グローバリズム、反新自由主義、反緊縮財政。
アイコン,ロゴ画面はイラストレーターtakaさんより。
takaさんの詳細情報はブログ画面にて。

 

ガチ系経世済民マンガ第二弾、

ギャル本こと、

資本主義と戦うギャル

発売日が刻々と迫っており、

残り1週間を切りました。

 

 

 

 

まぁ正直、

 

この資本主義と戦うというタイトル、

 

最初見たときはなんとアグレッシヴなタイトルだろう…

 

と思うと同時に、

 

絶対コレ「共産主義!」とか

言われるんやろな

 

っていう確信に似た予想が頭をよぎったわけですが、

 

まさしく今現在Xで実際に共産主義呼ばわりされて

叩かれてるのを見ると、

 

予想通り過ぎて

草生え散らかし過ぎて大草原

的な感想しか浮かびません。

 

まぁこの「共産主義!」呼ばわり、

緊縮反緊縮双方から来ている

のが面白いところですね。

 

反緊縮の共産主義呼ばわりは、

主にバラマキカルト方面から聞こえてくるようです。

 

私なんかは、最近彼らのことを

配金カルトとか呼んだりしてるわけですが

(なんかベーシックインカムカルトとかBIカルトとか言うと

彼らのヘンなスイッチ押しちゃうみたいなので)

 

まぁ要するに、

 

彼らハンキンバラマキカルト緊縮脳緊派の連中ってのは、

ある共通認識があるわけですよ。

 

つまり、

 

金さえあれば何でもできる

金さえあれば万事解決

 

という信仰ですな。

 

いわゆる拝金主義というやつです。

 

私なんかは、脳緊と反緊縮バラマキカルト、

彼らをまとめて

廃金カルトと呼んだりしてますが。

 

政府が国民から税で金を吸い上げて貯め込んでおけば、

それによって企業や家計が潰れて

国力たる供給能力が棄損されても

クニノシャッキンがなくなれば大丈夫とか

完全にイカれてる脳緊バカも、

 

政府が使い道を決めずに金ばら撒いとけば、

国民が

勝手に消費に回して

勝手にモノやサービス買って、

勝手に企業は供給増強のための投資をするとか

妄想してるバラマキ配金カルトも、

 

金さえあれば何とかなると思ってる

という意味では同類です。

 

面白いもんで、

 

上のような表現で見ると、

一般的に新自由主義的と思われがちな

緊縮脳緊派の方が

国家社会主義みたいな印象になり、

 

一般的に国家社会主義的と思われがちな

反緊縮配金カルトの方が

新自由主義みたいな印象になるのだから不思議なものです。

 

まぁそういう廃金カルトからすれば、

資本主義と戦うなどという言葉は

 

犯すべからざる

神聖不可侵な資本主義を冒涜する

狂気の発想

 

とも取れるのでしょう。

 

資本主義と戦うとか言われて

すぐ「共産主義!」とかいって

ヒス起こして発狂した猿みたいに

歯を剥き出して唾飛ばしてくるのも頷ける

というものですが、

 

まぁ落ち着けよ

って話なわけですよ。

 

そもそも資本主義をシステムとして考えた場合、

 

資本を集積してより巨大な資本を形成し、

集積し巨大化した資本を投入して

より巨大or性能の高い設備整えたり

より巨大な事業を運営したりすることで、

 

より多くの人が

利便性や価値などの恩恵を受け、

より進んだ新しい技術革新につながり、

社会を発展させていく

 

という感じになってるわけですよ。

 

ざっくり言うなら、

 

資本主義の構造

 

資本の集積と、資本の投入

 

この二つのパートに分けることができるわけです。

 

 

 

さてここで、

 

主に人間社会を発展させてきた

資本主義の部分はどちらか?

 

という話になるわけです。

 

当然

 

資本の投入

 

の方ですわな。

 

つまり投資ですね。

 

この投資という言葉、

 

資本を集積することも含めて言われることが多いですが、

 

集積しただけでは投資したとは言えませんよね。

 

集積しただけでは、資本を貯め込んだだけです。

 

集積した資本を投入するところまで

達成して、

初めて投資と言えるわけです。

 

資本には

お金である金融資本、

その他人材、設備、土地など実物資本

とがありますが、

 

ことお金(金融資本)に関しては、

場所も取らず重さもなく、

腐ったり劣化したりもしないため、

集めてほっぽらかしとくことが可能な上、

際限なくひたすら溜め込んでいくことが可能

です。

 

なので、

 

資本投入の圧力が弱かったり、

集積・投入プロセスにおける

世間一般への分配が弱かったり

偏りがあったり、歪であったりすると、

 

お金は特定のお金が集まりやすい場所に集積していくことになります。

 

基本的に、

 

お金というのは、それ自体食べられるわけでもなく、

 

 

物質的な価値は無い上に、

それ単体では価値を生み出す能力もありません。

 

単体で実質的な価値を生み出すことが可能なのは

ヒト、そしてモノ、すなわち実物資本です。

 

しかし、その実物資本たる人材や設備機械は、

 

お金を媒体として、

物質的価値のあるモノやサービスを交換する貨幣経済の下、

生活の糧を得たり機能を維持しています。

 

お金の流れに偏りが生じ、

歪になり、

こうしたところへの

お金の分配(実物資本への投資)が

滞ってしまった場合、どうなるか?

 

価値を生み出す人材は、

生活の糧を得ることが困難になり、

 

設備機械は、

その機能を維持することが困難になって、

 

その機能を十全に発揮することが

出来なくなってしまいますよね。

 

 

さて、現状を鑑みるに、

 

 

資本を集積する機能ばかりが先鋭化し、

肝心の社会への資本投入が鈍化する傾向にある、

 

いわゆる格差が拡大していく社会なわけですが、

 

果たしてそんな状態の

現在の資本主義が、

経済を、

社会を維持し、発展させる機能を

万全に備えていると言えるでしょうか?

 

確かに所得や保有資産に偏りが生じるのは

資本主義の宿痾とも言える症状です。

 

しかし、

 

その偏りがあまりに酷くなり過ぎ、

人材や設備にお金が回らなくなっていったとしたら、

人類はその経済を、

社会を維持していくことが

可能でしょうか?

 

答えはでしょう。

 

例えば無人島に、

 

札束の入ったアタッシュケースをいくら持ち込んだところで、

その札束にお金としての機能を期待することはできません。

 

せいぜい焚火の燃料に供されるくらいのものです。

 

つまり、

 

資本主義というシステムは、

 

金融資本が

実物資本の活用や維持、

発展に投入されるからこそ

人類社会にをもたらすのであって、

 

誰とも知らぬ者の懐というの中に

吸い込まれてしまう状況では、

何の役にも立たない。

 

むしろ人類社会にとって

有害な存在にしかならない

ということです。

 

 

余剰生産力と貯蔵・蓄積を可能にした文明とともに

生まれた資本主義の原型。

 

そして、

 

その生産物の流通を円滑にし、

生産物、あるいはその価値を資本として、

より資本の蓄積を容易にし、

その資本の活用を促進させる貨幣経済の誕生と発展。

 

これによって、

 

現代における資本主義の雛型が作り上げられます。

 

この資本主義の雛型は、

時代背景も相まって、

強者が弱者を搾取する形で

 

人類に技術の進歩や発展など

恩恵をもたらすと同時に、

争いの種となり、

格差、貧困と

それら全てに繋がるあらゆる

不幸と幸福をもたらすものとして

人類史上に君臨してきました。

 

そして資本主義は、

資本の差配をする権力を持つものとそうでないもの、

すなわち強者と弱者とを明確に区分することで

運用されるシステムです。

 

特別な“縛り”がない以上、

強者は際限なく力を蓄え続け、

弱者は際限なく力を搾取され続けることになってしまいます。

 

すなわち資本主義とは、

その強大な力を蓄えるという

構造と機能ゆえに、

一定の制御下になければ

容易に暴走する性質を持っている

ということです。

 

資本主義と戦う

 

というのは、

 

そうした暴走状態の資本主義と戦う、ということです。

 

要するに、

興奮してキレ散らかして

周りに迷惑かけてる資本主義を、

ぶん殴って正気に戻してやる

程度の話なわけです。

 

そのためには、

 

資本主義の偏りや歪みを糺す必要がありますが、

 

『資本主義と戦うギャル』という作品では、

 

主人公の伊佐波リオちゃんが、

快刀乱麻を断つ勢いで、

 

資本主義における偏り、

 

歪み、

 

ひずみ、

 

これらを引き起こす問題について、

切り込んでいくわけです。

 

 もっとも、資本主義とかいうものは、

実際には触れることすら出来ませんし、

 

ましてや殴ったり斬ったりなど

出来るわけもない。

 

実体の無い空気の如き存在である上に、

恐ろしく強大で巨大な、厄介な相手です。

 

個人などチリ未満の存在で、

多少人が集まり認識を共有できたとしても、

何が変わるものでもないことは明白です。

 

然しながら、

そのような絶望的な戦局の中でも、

握った拳を解かず、

敢然と立ち向かうその姿は、

 

いつか資本主義の横っ面に

グーパンをお見舞いして、

目を覚まさせてくれるような気にさせてくれます。

 

諦めたらそこで試合終了。

 

資本主義という構造を理解するでもなく、

漫然と受け入れていた貴方の横っ面に、

気付けの一発をお見舞いしてくれる

作品であること請け合いです。