善悪のバランスと自己責任論 | 門前小僧、習わぬ今日を読む

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反グローバリズム、反新自由主義、反緊縮財政。
アイコン,ロゴ画面はイラストレーターtakaさんより。
takaさんの詳細情報はブログ画面にて。

 

 

 

善と言うものが他者利益の追求、悪というものが自己利益の追求という属性を帯びているとすると、結局善悪というのはどちらが良いというものでもなくバランスの問題だと言うことが分かる。

 

悪が自己利益の追求だとしても、全く追求しないとなれば自分が生きていけなくなる。
しかし、それは善も同じで、他者利益を追求しなくなれば自己の生存や生活が脅かされることになる。

 

過酷な自然環境の中で生きていくには個人の力では限界があり、だからこそ人間は社会を形成したわけで、さらに生産活動の分業を高度に発展させて安全性と利便性を高めた現代では、なおさら善性、他社利益追求の重要性は顕著になる。
まさに情けは人の為ならずである。

 

一方で、善性を他者に強要したり押し付けたりすることは悪に通じる道でもある。
善性は社会からの要求であり、間接的に自己利益に繋がっていくものだけど、自己利益追求の延長として他者に善性を強要することも、悪特有の行動様式の一つと言える。

 

つまり悪の行動様式としては、自己利益の追求の他に他者への善性(他者利益追求)の強要というのがあって、これこそが現代日本に蔓延する“個人は社会(他人)に対して一方的に奉仕すべきであり、社会が個人に対して恩恵を与える必要はない”という自己責任論の本質とも言える。

 

悪が栄えた試しはないと言うけど、自己利益を追求するやつばっかりになって、他人の自己利益追求を邪魔したりさせないように強要するような輩が多ければ、社会自体の運営が難しくなって衰退していってしまうから、当然といえば当然の話で、国の権力者がそういう発想ならその国は衰退しても当然。

 

自己利益追求を正当化して他者利益追求を嘲笑う連中や、社会に頼るなとか、一人で生きていけor生きて行きたいとか思い込んでる連中が増えれば増えるほど、その国が衰退して行くのはいわば自然の摂理とも言える。