みんなの力が必要です。 | 門前小僧、習わぬ今日を読む

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反グローバリズム、反新自由主義、反緊縮財政。
アイコン,ロゴ画面はイラストレーターtakaさんより。
takaさんの詳細情報はブログ画面にて。

みんな気づいてないのか、あんまり言われてないけれど、

今の社会って、

失業の責任を失業者個人に押し付ける社会なんですよね。

 

仕事に向いて無かったとか、

人間関係が上手く築けなかっただとか、

体力が、とか、

適応力が、とか、

実力が、とか。

 

働きたくない!っていう人は、

みんな盛大な勘違いをしてるんですよ。

 

働きたくないと思い込まされてるだけなんです。

 

低賃金にハードワークで長時間コキ使われて、

身体や心が壊れて働けなくなれば、

自己責任で失業させられて、

無収入にされてしまうような社会で、

 

みんな自信喪失させられてるんですよ。

 

だから、働きたくないって思い込まされてしまう。

 

で、社会や政府は何をしてるのかっていうと、

失業の責任を個人に押し付けて、

なけなしの失業給付だけ握らせて、

後は自分で何とかしろ

っていうわけです。

 

今の職安なんて、ロクな選択肢もない仕事案内所を

お情け程度で運営してるだけです。

 

結局社会も政府も、

その人に合わせた仕事もロクに提供できず、

知らん顔してるだけ。

 

その労働時間働き続けるのが厳しいなら、

短時間の仕事や柔軟性のある勤務時間の環境を、

人付き合いが苦手なら、

ややこしい人付き合いのない、

もしくはその人が溶け込みやすい環境のある仕事を

提供できるような社会だったら、

働きたくないっていう人も少ないでしょう。

 

人は誰でも、

承認欲求ってものを持っています。

 

誰かに認めてもらいたい。

褒めてもらいたい。

 

これは幼い子供が親や大人に対して抱く

原始的な欲求ですが、これが昇華すると

 

誰かの役に立ちたい、

誰かの力になりたい、

誰かの笑顔が見たい、

 

という

人の善良性ともいうべきポジティブな心理に変わります。

 

そして、

こうした人の善良性が、

これまで社会を発展させてきたわけです。

 

生活保護が必要なほど困窮していても、

生活保護の利用を忌避する人が居ます。

 

彼らはなぜ、生活保護を忌避するのでしょうか。

 

恥ずかしいから?

国からの施しを受けることを潔しとしないから?

生活保護受給者というスティグマを恐れるから?

 

違います。

 

彼らはこう思っているんです。

 

自分には何かができる。

人の役に立てる。

役に立って、その対価として生活の糧を得たい。

 

自分は役立たずじゃない。

 

いわば人としての尊厳が、

生活保護の受給を忌避させてしまうのです。

 

確かに、

 

困窮者が生活保護を拒絶することは合理的ではない。

生活に困窮しているのなら、

生活保護制度を積極的に活用すべきでしょう。

働きたくても働けない人も、

生活保護を活用すべきです。

その人の善良な側面、人としての尊厳に浸け込んで、

生活保護給付を削るような緊縮財政論者のクズは、

社会から排除すべきです。

 

しかし、

 

自らの人としての尊厳を訴えることは、

 

果たして愚かなことなんでしょうか?

無益なことなんでしょうか?

 

自分は役立たずじゃない。

人の役に立って、その対価として生活の糧を得たい。

 

彼らがそう思うことは、

悪いことなんでしょうか?

 

違うでしょう。

 

その彼らの心意気を活かしきれない、

意思を汲み取れない社会と政府が悪いのです。

 

失業や低賃金は、

失業者や低賃金労働者の能力が足りないだけという、

失業者、低賃金労働者個人に責任を押し付けるような考え方は、

現在のクソみたいな新自由主義的、

株主至上主義的な

労働環境や社会環境に囚われた偏狭な考え方です。

 

彼らの能力を活かせる環境を提供し、

彼らの力を借りて、

よりパワフルで発展性のある社会を創り上げる。

 

もし企業が使えないのなら、

通貨発行権という財源に囚われない国が、

そういった仕事を提供すればいい。

 

彼らの苦手な環境を排し、

限りなく理想的な環境を提供して、

彼らの力を100%以上に引き出した上で

十分な報酬を受け取ってもらい、

働きたくても働けない人や、

年齢その他の理由でリタイヤした人々を支えながら、

今より豊かで、力強い社会、

みんなが幸福になれるような社会を、国を創り上げる。

 

そうした環境を提供するには、

多くの労力、時間、技術革新と、

様々な試行錯誤のような

膨大なリソースを割くことが必要かもしれません。

 

だったら国が、

政府が本気で取り組めばいいでしょう。

 

そもそも通貨発行権は、

誰かを儲けさせるために使うものではありません。

 

この国をどんな国にしたいのか。

どんな社会を創りたいのか。

 

そういう目的のためにあるのです。

 

誰かが儲けるなんてのは、

二の次三の次の話でしか、

本来はないのです。

 

国の借金などと言うくだらないデマから脱却したのなら、

もっと素晴らしいと私たちが思えるような

社会の創造のために

議論を重ねていくべきでしょう。