政策カルト、理論カルト、そして安全保障カルト | 門前小僧、習わぬ今日を読む

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反グローバリズム、反新自由主義、反緊縮財政。
アイコン,ロゴ画面はイラストレーターtakaさんより。
takaさんの詳細情報はブログ画面にて。

 

さて、

 

過去何回だこれ?

結構やって来た日刊IKDの企画ですが、

これを通じていろいろ見えてきたものがあります。

 

それは、

 

何か特定の政策、あるいは理論のような、

些末なものに拘っていると、

思考が硬直化し、

柔軟性を無くし、

自分どころか対話相手の態度まで硬化させて

議論を口論に変え、

論理は脆弱化し、

目標を見失い、

遂には主体性をも無くしてしまう

と言うことです。

 

池戸氏が拘っているのは

ベーシックインカム政策とインタゲ論ですが、

所詮は一つの政策、一つの理論に過ぎません。

 

あらゆる政策には、

メリットの裏にデメリットが必ずありますし、

 

あらゆる理論には、

前提条件の変化によって

成立しない事象というものが

必ず存在するものです。

 

政策や理論に拘る、

 

つまり

 

その政策を「必ず達成せねばならない」と思い込むことや、

その理論は「絶対に正しい」と信じ込むことは、

 

それらのメリットや正当性の裏に、

必ず存在するデメリットや誤謬から

目を逸らさせてしまう

ことに繋がりやすいのです。

 

実際にそうなってしまっているのが、

池戸氏を初めとした

私が“カルト”と呼ぶ人たちです。

 

私のベーシックインカムへの批判は、

別の側面から見れば、

ベーシックインカム政策に対する不安、

そして疑問を表しています。

 

こうなる可能性はないのか?

こうなったらどうするのか?

 

という問い掛けです。

 

そのような問いかけに対して、

彼らBIカルトたちは

どのような対応をしたのか?

 

頭から否定し、

嘲笑し、

揚げ足を取り、

仕舞いにはベーシックインカムに関する批判(不安や疑問)以外の

私の考えや価値観、

人格まで否定するだけで、

 

私の批判(不安や疑念)に真摯に耳を傾け、

誠実に回答してくれる人は居ませんでした。

 

誠実に回答するとは、

私の提示した状況をひとまず受け入れた上で、

それに対する対応策を

(例え起こりえないと考えたとしても)

一緒に考えてくれること、

つまり議論をしてくれることです。

 

そういう意味では、

ベーシックインカム支持派の人よりも、

批判派の人の方が議論に応じてくれることの方が

多かったといえるでしょう。

 

特にこのベーシックインカム政策は、

実践された事例やデータが極めて少なく、

緊縮反緊縮の議論に見られるような、

明白に真な前提といえるものがほとんど無く、

多様な事例による予測が困難な問題です。

 

なればこそ、

多様なシミュレーションを想定した、

メリットデメリットを炙り出す議論

というのが、盛んに行われて良いはずです。

 

それが例え、

妄想ではないかと思われる、

いかにもバカバカしい問題であったとしても。

 

ところがBIカルトたちは、

 

「ハッキリした事例もデータもないんだから、

あれこれ考えても無駄。だから批判は止めよう」

 

「データもない批判なんか無価値」

 

頭から否定するばかり。

 

喧嘩にしかならないから

 

という理由で。

 

今となってはどうでもいいし、

私の態度にも問題はあったでしょうから、

彼らの不誠実な対応をとやかく言うつもりはありませんが、

 

要するに

ベーシックインカムという“政策”に拘っていると、

ベーシックインカムのデメリットを想定し、

その対策や対応を議論することすら、

忌避や攻撃の対象になり、

結果、

先鋭化して、硬直していく。

 

ベーシックインカムをはじめ、

政策には、

政策によって達成されるべき目標があります。

 

ベーシックインカムの目標とは何か?

 

国民を豊かにすること

 

ですよね。

 

しかし、

 

国民の可処分所得を限定的に給付金分増やす一方で、

 

国民を豊かにする

 

というベーシックインカムと同じ目標達成のために

極めて重要な役割を果たす、

 

雇用、賃金といった要素に関して、

ベーシックインカムが問題を生じさせることは、

本当にないのか?

 

この問題に関する議論を放棄することは、

「国民を豊かにする」というベーシックインカムの政策目標に

疑義を生じることになります。

 

すなわち、

 

こういった議論をせずに

ベーシックインカム政策を推し進めることは、

政策の実現だけが目的化して、

本来の目標を見失っていることを示しています。

 

そして、

 

その政策実現だけが目的化している人々は、

自分が本当に望んでいるものが何なのか

という主体的な意思すら見失っていくことになるのです。

 

結果、

 

自分が本当は何を望んでいるのかという意思、

すなわち自己の主体性が失われると、

 

「目標を見失った政策実現」

という形骸化した目的を、

ただひたすら達成するための

集団の一部になってしまうのです。

 

まるで、

 

多数の個体がくっついたまま一つの個体を形成している

クラゲのような群体を構成する細胞のように。

 

 

 

 

たかさんが描いてくださった、

この絵の中にいる反緊縮派の人々が、

決して反緊縮の本来の目標を見失わず、

自らの主体性を失わずにいてくれることを

切に祈ります。

 

 

さて、

 

 

かくいう私は、

安全保障カルト

を自称しています。

 

国民生活のための安全保障は、

食料、エネルギー、防災、

交通通信、医療、教育、治安

という7つの基本的な要素の供給・提供を維持しながら、

国民の経済的な豊かさを求める

というものですが、

 

それ自体が政策の目標として存在するものですから、

一つの政策に拘るということはありません。

 

つまり、特定の政策を観察する視点として、

一定の基準・価値観を保ちながら、

政策への批判的なスタンスを保つことができるのです。

 

さぁ、みなさんも、

安全保障カルト

入信しませんか?

 

 

え?

 

お前も十分怪しいじゃねぇかって?

 

それでいいんですよ。

 

そう考えることこそが、

自分の主体性が機能している証拠なのですから。

 

もっとも、

 

カルトにハマって拒否反応

を示している場合もあるから

なんとも言えませんけどね。