大衆と愚民~現代の愚民化政策、“頑民化政策”についての考察 | 門前小僧、習わぬ今日を読む

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反グローバリズム、反新自由主義、反緊縮財政。
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──────── 大衆とは、何が自分にとっての利益なのかわからない人々のことである。

by ハンナ・アーレント

 

以前拙記事で参照しましたが、ハンナ・アーレントによると、

大衆という人々は、自分にとって何が利益となるのか、どうすれば利益が得られるのかが解らないので、

選挙においては誰に、あるいはどの政党に投票すればよいのかが解らない。

すなわち、政府に対してどのような政治的要求をすればよいのか、どのような手段で政治的要求を達成すればよいのか解らない人々、と言い換えることができると思います。

 

 一般的に、大衆という言葉、あるいは名称は、思想の世界ではネガティブな意味で使われることが多く、その場合目先の美辞麗句に踊らされ、特に根拠もなく自分の利益とは全く無関係な政治的主張や、投票行動をしてしまうような人々と捉えられます。

 

ここで、もう少し広い意味で大衆という言葉を考えてみます。

 

今回の選挙でもそうですが、以前取り上げたウーマンラッシュアワー村本氏のツイートにもあったように、選挙に全く行かなかった層というのが存在します。

無論、政治的意図があって投票に行かなかったという人々もいるかもしれません(その場合、政治に全く意味が無かったという点で、まさしく大衆的行動)が、それ以上に、やはり政治に興味が無かった層だと考えることができます。

即ち、大衆とは政治に全く無関心・無知な人々、言い換えれば政治的に無垢な人々ということができると思います。

 

要するに、政治に対して無知であるがゆえに、自分にとって何が利益になるのか解らないのと同時に、妙なイデオロギーにも染められていない状態であり自分にとって何が利益になるのかを理解すれば、その為に必要な行動をとることができる可能性を秘めた人々なわけです。

 

無論、その逆もまた真なりで、妙なイデオロギーに絡めとられてしまう可能性も秘めているわけですが、

そう考えると、「大衆」というものも、必ずしも悪いものでもないと考えられるわけで、私としては、その「大衆の可能性」を信じたいです。

 

ゆえに、思想の世界で批判される大衆、すなわち、文化に深甚な悪影響がもたらす可能性を秘めた存在としての大衆は、先述した無垢な大衆とは分けて考えるべきではないのか、と思うわけです。

 

○○な大衆、だと紛らわしいので、そういう人々をここでは愚民と称します。

愚民という言葉をWikipediaで引くと、元は徳川斉昭(水戸藩主・徳川慶喜の実父)が

「百姓に学問など全く不要だ」「ただひたすら農耕に励んでさえいればよい」と公言した上で、農民を「愚民」「頑民」と呼んでいた(Wikipedia)

とされ、これが日本語で言う愚民という言葉の元であるようです。

国民に対して余計なこと、主に政治的なことを考えさせないようにする政策のことを愚民化政策といいますが、一般的には政治に全く関心を向けさせない、すなわち“無垢な大衆”化をさせるような政策のことのようです。

手法は様々で、

東西に分裂するまでのローマ帝国における、パンとサーカスがその典型となる。現代でも独裁政権時代の韓国で実施された3S政策というのが挙げられ、これの名称はスクリーン・スポーツ・セックスという人民が特に好む3つの娯楽の頭文字から来ている。(Wikipedia)

というように、娯楽を与え、目を逸らさせるパターンや、欧米列強の植民地支配のように、文字の読み書きなど、基礎的な教育を与えないことによって政治に参加させないパターン等があります。

 

しかしながら、これらは先ほど述べた、いわば「“無垢な大衆”化させるような手段」です。

娯楽で目を逸らしきれなくなった時、

あるいは文字が読めなくとも自分にとって利益になること、何をすれば利益になるのかに気づかれてしまえば、

大衆は庶民、あるいは市民と化し、彼らにとって利得となる政治活動を展開してしまいます。

 

政治において、自分たち個人にのみ利益が得られるようにしたい、つまり政治を私物化したいと考える輩にとって、

それは不安定要素となってしまいます。

 

では、どのようにすればよいのか。

 

ある特定のイデオロギーをデマや扇動で吹き込み、それを真実だと思い込ませること。

人間の知的レベルはピンからキリまでありますし、一度信じ込んだ価値観や信条というのは、相当の理性と知性が無ければ翻せるものではありません。

一度信じ込ませてしまえば、後は政治を私物化したい輩の思う通りの行動を取るようになります。

無論、彼らの扇動やデマに汚染された大衆は、何が自分たちの利益になるのかが理解できていませんから、

自傷行為ともいえる政治的発言や行動を繰り返します

 

結果、自分たちの首を絞め、自分の利益を扇動主に献上するようになります。

すなわち愚民とは、

自分たちの利益にならない政治的主張を信じ込み、それにそった政治的行動を繰り返す人々

と定義することができるでしょう。

 

また、一度信じ込んだイデオロギーは、自分の力だけではもちろん、周囲の庶民・市民たちがいくら忠告しても、覆すことが困難であり、そういう意味では彼ら愚民を頑民と呼ぶことも出来そうです。

 

安倍自民党が行った手法は、まさに大衆の頑民化であり、安倍信者と呼ばれる人々は、まさにこの頑民化政策の犠牲者ということが出来そうです。