今日は友人との2人女子会^^
毎年夏にアメリカより帰国する彼女。
この恒例の2人女子会が、毎年とても楽しみだったりします。
アイビーリーグで教壇に立つ彼女。
「あのね、私のクラスに日本からの交換留学生の女の子がいてね…。」
男の子は珍しくないものの、日本からの交換留学生の女の子はあまりいないので、それだけで嬉しくなってしまったという彼女。ついつい、日本人女性としての意見を皆にシェアしてほしくて、学期開始後、ついついその子に意見を求めてしまう場面が何度かあったと言います。
「でも、何を聞いても、これといった答えが返ってこないの。意見がないわけではないだろうし、英語力の面でもそれほど不安がある訳ではないんだろうけど。」
そう不思議に感じていた矢先、その学生がオフィスに訪れたと言います。
授業の質問があるのかと思いきや、話を聞くと、早く日本に帰国したいとのこと。
その理由は、アメリカ人の友人と話していても、日本人の子たちとあまりにも反応が違い、それに合わせるのが面倒だと感じてしまうとのこと。
そんな話を聞きながら、自分がアメリカで大学生だった頃を思い出しました。
最初は心弾ませてアメリカの地を踏んだものの、アメリカ人のルームメイトたちといるよりも、韓国や台湾の友人などアジア人の友人といる方がどこか気持ちが楽だと感じていた時期があったのです。
なぜそんな風に感じるのか。
当時は、そんなことを模索することもなければ、深く考えることもありませんでした。
でも今思うと、彼らとの距離感が分からず、そしてどこか「異質」なものとして捉えてしまっていたのかもしれません。
娘が2歳の時にモンテッソーリ教育と出合ってから、知らず知らずに行ってきたことは、非認知能力を高めること。当時は、そんな言葉すらも知らず、ただ学力的な部分よりも、数値化できない部分としっかり向き合うモンテッソーリ教育がとても魅力的に感じました。
その中でも、母が意識したのは自分と異なるものを受け入れる力。
「ダイバーシティー」や「異文化コミュニケーション」といったような大げさなキーワードでなくとも、早い時期から英語という言語を取り入れたのも、根底には異なるものにも寛容であって欲しいという願いがあったからなのでしょう。
相手への敬意を忘れない心は、モンテッソーリ教育の最も抜本的な部分。
それが同じ日本人であってもそうでなくても、これから長い年月をかけて育てていきたいと感じる部分です。
アイビーリーグの教壇から見えた一コマ。
日本から遠く離れたアメリカへとやってきた多感な時期の女の子が感じる率直な想い。
ここをどう乗り越えるかが、更なる成長へのチャンスなのだと、自分自身のちょっぴりほろ苦い思い出から感じています。
誰もが羨む環境に身を置くことは、計り知れない努力が必要なのでしょうが、きっとこの女の子だったら乗り越えられる。
直観的にそう感じた時間でした。
来年の女子会が、すでに待ち遠しい母です^^
ご訪問、誠にありがとうございます