ヤマグチ コウイチロウ/山口康一郎/Yamaguchi Koichiro
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PMKって何の略?

PMKって何の略でしょう??


パッと、儲かる会社です。<m(__)m>

Perfect method of knowhow (最善の経営の方法)というのが 海外向けです( ^^) _U~~

「人間は考える葦(あし)である」

「人間は考える葦(あし)である」

という言葉を聞いた事がありますよね。

フランスの物理学者パスカルがパンセの中で書いた一文です。

「人間はひとくきの葦にすぎない。
 自然のなかで最も弱いものである。
 だが、人間は考える葦である。」

あまりにも有名ですよね。

人によっては葦を足だと思っている人もいたようですが植物の葦です。

そうだったのか?!今知ったという人あなたもそうだった?


そしてそのあとは次のように続きます。

「人を押しつぶすために
 宇宙全体が武装するには及ばない。

 蒸気や一滴の水でさえも、
 人から生命を奪うのは容易い。

 だが、たとえ宇宙が人を押しつぶしても、
 人は人から生命を奪うなにものよりも尊いだろう。

 人は自分がいつか死ぬことと、
 宇宙の優勢さをすでに知っているからである。

 宇宙は何も知らない。

 われわれの尊厳のすべては、
 考えることのなかにある。

 われわれはそこから
 立ち上がらなければならないのであって、

 われわれの満たすことのできない
 空間や時間からではない。

 だから、よく考えることを努めよう。
 ここに道徳の原理がある。

『人間は無力だ。しかし、人間は考えるという事が出来る。

人間は死ぬことも知っているし、宇宙がすごい事も知っている。

「考える」という作業がどんな障害にも立ち向かう力に変える。

それも人間の本質であり、尊厳とも呼ぶべきものである。

だから人間は思考しなければならない。

そしてそこに物事の原理がある。

そこから立ち上がっていかなければならないのだ。』

という事なんだろうと思います。

ところが、最近、便利になりすぎた世の中のせいで

「考える」ということをしない人が多いように思います。

努力しなくてもなんでも手に入るからです。

何でも人がしてくれるからです。何でも機械が代わってくれるからです。

・さらに余計なことを考えたくないから、引きこもったり、なるべく人と接さないようにする。

何も考えずに享楽的なテレビ番組ばかり見たり、友達と何も生産されない楽しいだけの時間を過ごす。

・人から嫌な事を言われないように気遣うことだけをして、毎日を過ごす。

・何でも「わからない」という言葉を簡単に口にする。

・すぐに「どうしたらいいのか」を聞く。

・知らないのに知ってる素振りをしてやり過ごす。

・他の人がしているかどうかをすぐ見る。していないと安心する。

結局「考える」という事をしていないのです。

「考える」事をせずにいるとはっきり言ってどんどん衰えていきます。

簡単に言えば馬鹿になるのです。

いや、バカかな?!ばかかな?アホといった方がいいのかな?どっちかな?

こんなつまらない事でも考えてしまうのが人間であると僕は信じます。

さて、「考えず」「何もしない」という怠惰な行為が人間の本質を曇らせ

堕落させることを、私たちはもっとよく理解しないといけないのではないでしょうか。

自分を律すること。自分に厳しくする事をしないといけないと思うのですがどうでしょうか?!

皆さんは、何か自分に厳しくしている事をしていますか?!

パスカルは人間についてこうも言っています。



 その手段がいかに異なっていようとも、みなこの目的に向かっている。

 意志は、この目的に向かってでなければ、一歩も前へ進まない。

 これはあらゆる人間の、みずから首をくくろうとする人に致るまでの、

 あらゆる行為の動機である」

「自ら首をくくろうととしている人に至るまで、

 <幸福になるための動機>だと言うのです。

 それは、「死ぬ方が幸せだ!」という判断があるからでしょう。

 死ぬ事が幸せかどうかは別にしても、考えるという事の中でも判断するという事もあります。

 特に現代の日本人は、その「判断する」事をしなくなっている人がいるますよね。   

 皆さんの中にも・・・。

「私だって考えてますよ」

と言う人がいますがそれって考えているんじゃなく<迷っているだけ>だと思うことが多いです。

その<迷っている事>を判断している最中だと考えているんだといっている人の方が圧倒的じゃないでしょうか?!

人から出された提案や自分に起こった状況をを自ら考えるのではなく

今までの自分の経験から得られた考えとただ単に迷っているだけ、

判断自体もせずに迷っているだけ・・・。

それを考えていると勘違いしている。


「判断する」事と二つあると思います。

判断する事に出会ったときに嫌な事だと感じたり、

直感的に「これだっ!」と感じるのは、本能で判断していることの方が多い気がします。

でも最終的には理性や知識を持ってすぐ飛びつかずに照らし合わせや確認をして結論を出さないといけないのですが

迷いが生じるとその結論が出ない。もしくは結論が出ているのにまだ何かあるんじゃないかという不安や心配で踏み出せない。

パスカルが言うところの怖い絶対的な存在としての宇宙のように感じて勇気が出せない。

今の方が楽、今で満足、わざわざ無理して失敗するよりも・・・。

何度もみんなに話していますが<今にとどまっている事の怖さを知らないという事>が何よりも僕は怖い。

それを無知というのです。物事を判断するためには知識が必要です。

その知識を得るためには、教えてもらうだけでなく考え出す事が一番必要です。

そしてそれによって判断し、行動しなければならないと思います。

僕はイソップ物語の先の事を知らずに死んでいくキリギリスのように死にたくありません。

でもアリのように楽しみもなく働いてばかりも嫌です。

だから先の事を知った上で楽しく暮らせる<アリギリス>になりたいというのですが、

今の現代日本全体は、<キリギリリ>になろうとしていると思います。

先の事も考えずに一所懸命働きその結果は滅ぶ道をまっしぐらにいっている。

僕は嫌です。キリギリリになるなんて・・・。

キリギリリにならない方法は、これしかありません。

「思考する。判断する。行動する。」


皆さんの頭脳はまだ充分ヒマそうにしてますよ。

キリギリスのように優雅な楽しみも欲しいし、冬になってもアリのように暖かいところで過ごしたいし、

かといって、感情や情緒もなく本能だけで生きていきたくないし・・・。

「そ、そうだ!  
  アリギリスになればいいんだ!
   頭を使って
    アリとキリギリスを両立させるしかない!」

「税金を払っても人に心から施しをしても
  まだ有り余るだけの余裕のある
   自分の楽しみを持てるアリギリスだあ!
   これしかない!そのためには、商売だあ!」

キリギリリという考えを持ったのは、この半年です。

皆さんは、キリギリリになっていませんかあ??!

ならないためには、

「いま考え、よく見極め、すぐ動く!」

しかないと思いませんか?


もう少し頭を働かせましょうよ!みんな頭を休ませ過ぎです。
それって放置しているのとなんら変わりがないですよね。

「物事を判断する」って本能で判断する事と理性の部分で
「すべての人間は幸福を求めている。これには例外がない。
違った!?良かったあ・・(~_~;)

最高裁が「真っ向勝負」を認めた?!

1016最高裁が「真っ向勝負」を認めた?!


ちょっと昔の話ですが・・・

1015最高裁が「関西水俣病訴訟」の上告審で

国と熊本県に行政責任(管理責任)を認める判決をしました。

既に直接原因を認め、直接責任が自社にある事を認めて賠償について判決に従っているチッソ(水銀を垂れ流した企業)とは、別に間接責任を熊本県と国に求めている訴訟でした。

「チッソ関西水俣病訴訟団」は、他の訴訟団とは違い、最後まで和解せずに、簡単に言うと「真っ向勝負」で突き通した訳です。

「真っ向勝負」は強いねえ!

小池百合子環境省大臣は、判決後、国の責任者という立場で

頭を下げて<謝罪>として詫びた。


そして「管理責任に関して真摯に受け止め、<反省>をして、

繰り返してはならない<決意>を新たにする」決意表明を行った。

潮谷熊本県知事も、超要約すると

「管理責任を果たせなかった事を重く<反省>し、

原告と判決を待たずになくなった人に深くお詫びをします。

二度と起こさないように責任を果たします。

どのような形で<謝罪>をするのかについては、時間をください」

とやはり決意表明を伴うお詫びを行った。

どうです?!国も熊本県もちゃんと「失敗は成功の素」の<懺悔>素直に反省自ら謝罪繰り返さないための決意表明をしているでしょ!?

国でも「真っ向勝負」をかけられたら、ちゃんと「失敗は成功の素」で対応しないといけないんです。

これからは、裁判所が<分析>して出した<解決方法>として判決という<確認>と<決断>を国が受け入れ、即<実行>に入らないといけないのです。


それをしなさいという賠償命令なのです。

それにしても 訴訟団の方も 他の訴訟団が 国や県との和解に応ずる中で

・最後まで諦めず、焦らず、原因や責任をはっきりさせるという、自分たちの信念を持ち、コツコツと努力を重ね最後までやり遂げた。

から この結果をもたらしたんだと思います。

今回の判決は、彼らにとって 本当にすばらしい結果だったのではないかと、心から喜びました。



分け寝

社員からこんな質問がありました。

僕の会社では、グループウェアを用いて、スタッフ同士がコミュニケーションをとりやすい環境を整えています。


素朴な質問ですいません。。。
社長の睡眠時間ってどのくらい?
結構活動時間が多そうで興味があるのですが。
ほとんど寝てないのではと思うときがあります。。。

僕の睡眠時間は、あまり決まってません。まあ、夜中はよく起きてますね。

一番寝る時間として多いのは2時半~3時ぐらいかな。

起きる時間で多いのが7時半から8時ぐらい。

だから一番普通で5~6時間は寝てますよ。

但し僕は、分け寝が出来るのが特徴ですねえ(^_^)v


大体、人間ってぇのは寝た時間の3倍は起きてられるみたいですから

1時間寝ると、34時間は持ちます。

2030分寝ると1時間~2時間持ちます。

だから、テンションが高い時は3時頃に目が醒めて

それから6時まで起きて仕事をする時などがあります。

その辺は、社員が不思議に思うのではないかなあと思ったりします。


睡眠時間が足りないときは、その時でヒマがある時や時間をみて30分ぐらいを分けてとります。


だから意外と(?)睡眠時間は取っていると思います。

でもそういう風にしているので時間は有効に使えていますね。

特にグループウェアの文章を考えたり、

アイデアをまとめたりする時には、アドレナリンが出ているようです。


頭が醒めているというより、頭がノンストップ状態に入っているという感じです。

そうなると、全然眠くありません。


そんな時はいいアイデアが出るのでそれにまかせて眠りません。



寝れるときに寝る。頭が回転し始めたら、それを活かす。そんな感じです。



注文違いの多い料理店は、すし屋になる決意をしました。

注文違いの多い料理店は、すし屋になる決意をしました。



後日談:



豚丼を食べた日の深夜、調理士会にクレームが提訴されては困るMオーナーシェフ

自分の間違いを認め、Kと一緒に書いた謝罪文を持ってきて謝り、例の岬にすし屋を開業する準備に入る前には、ちゃんと僕の食べたいステーキを償いとして出張サービスで無料で食べさせてくれるようです。

ま、おいしいかどうかは、食べてみなければ分かりません。

本当にその岬で<恵まれない子供たち専門すし屋>は成功するのでしょうか?!

心配です。

果たして世の中の恵まれない子供達は、どうやってその岬にそんなすし屋がある事を知るのでしょうか?Mオーナーはどうやってその恵まれない子供達に告知するのでしょうか?

子供達はどうやってすし屋に行くのでしょうか?

何の修行もしないで調理師免許だけですし屋になれるのでしょうか?

美味しいのでしょうか?怖いです。

決意だけで情熱だけで資格だけでは商売は出来ません。

恵まれない子供達は無料招待したら一度は来るかもしれませんが、

美味しくないとそこまで来てくれないし、子供達は、きっと交通費を使うぐらいなら、隣町の回転寿司屋に行くと思います。

だって<恵まれない子供達専門すし屋>は、恵まれない子供達にとって得体が知れず、何を企んでいるのか判らず高くてまずい危険のある何を考えているか判らないすし屋だからです。

Mオーナーは

僕は恵まれない子供達を幸せにしたいんだ。

そのためのすし屋ならどこにつくってもきっとわかってくれる。

きっと自分を探してでも来てくれる。

丁寧に一所懸命作れば少しぐらい高くてもまずくても来てくれる

とまだ思い込んでいるようです。

『注文違いの多い料理店』

今日、KのところのM君が、トラブった事に対して、逃げを打ってきた。

責任を感じたKは必死!

なんとか逃げようと考えて書いた僕への謝罪文の内容がひどいらしい。

Kは、僕にその謝罪文を見せないようにしながら

友達でもあるM君をかばいながら綱渡り状態。

前夜、M君のお父様が僕のところに来てトラブルの状況を聞きに来たが、

大先生でも人の親、あれを見てると「真っ向勝負」をかけにくくなるが、そこは変人社長!頑張る。

ま、簡単に言うとある仕事を依頼したにもかかわらず、要望どおりの書式が、ネットカフェプレオープンに間に合わず、合意書なし、契約なしでのオープンになっている事が問題。

完全にM君のミス。

 例えてお話しを作りました。

===============    

          「注文違いの多い料理店」 尾宮沢 権威恥 
                 ギンガミ鉄道 *** 出版社

知り合いのKの知人がやっているとある調理士会加盟のステーキハウス「もん」でサーロインステーキを注文。まず一度目にサーモンステーキが出てきて注文間違いを指摘、オーナーシェフのM君がすぐ作り直しますから・・・といって厨房に戻ったが10分後に




おまちどおさまでした。ご注文のハンバーグステーキです

おかしいんじゃないか?!この店は?腹が減っているんだよ!もう帰る

というのを

すみません。もう一度すぐ作りますから、今すぐちゃんと今度は出来ますから



まだなの?本当にできるの?大丈夫?!

出来ていません。」とMオーナーシェフ。
何だって?それで」と僕。


すみません。ガスレンジと水道の調子が悪くてまだステーキは出来ていません。あのう?それで焼き具合は、レアでしたでしょうか?ミディアムだったでしょうか?ウェルダンだったでしょうか?それと付け合わせは、ポテトで良かったでしょうか?!

と怒られるのが怖そうに恐る恐る聞いてくるMオーナーシェフ。

 僕が

何ぃ?さっき聞けば良かったじゃないか?今頃聞くのか?!『すみません。すぐ出来ます。ちゃんと作ります。』と謝っただろ?!もういい!ここは調理士会認定の店の看板出しているじゃないか?!調理士会に言うよ?!いいね?!

といったら Mオーナーが謝りもせず、


それは困ります。」の一点張り。

僕「あなたは、どこで修行したの?僕には信じられない。こんな店、お客さんは2度と来ないよ。このまま営業する事なんて無理だよ。

 「私は、独学で調理師免許を取っただけです。他には修行してませんが・・・。何か?

 さらに「あなたのおかげで踏ん切りがつきました。たしかに私にはこの店はもう無理です。最初から夢だった<恵まれない子供たち専門のすし屋>を岬の先に作ります。そこで世の中にいる恵まれない子供たちのために調理師の資格を活かして彼らに尽くします。気づかせていただいてありがとうございました。だからこの店を明日閉めて僕は行きます。」って訳の分からないことを言っている。

 店のウェイトレスが
そこまで怒ることないんじゃないですか?そんなに怖い顔でオーナーがかわいそうじゃないですか?ねえ、他のお客さん、そう思いませんか?

 Mオーナーシェフが
そうだよねえ・・・。僕にも言い分があるんだけどねえ。いい訳言おうと思ってもお客さん怒っていて怖そうだったもんねえ。」と言った。

というお話。

僕は、腹減ってるんだけどなあ・・・。
僕は、ただステーキを食べたいんだけどなあ・・・。

それにしてもその岬の先に恵まれない子供たちはいるんだろうか?!

その店でMオーナーはすし屋の親方として食っていけるんだろうか?!

調理師っていいなあ?!と考えながら吉野家で豚丼を食べて帰ってしまった僕でした。

自分で読んでもやっぱり訳がわかんないけど、本当にそのまんまの話です。

付け加えるとMオーナーの幼なじみのKが彼をかばって彼の責任を負おうとしている。

訳ゃ分からん?!


「失礼しました。悪い事をしました。」

「本当にすみません。謝ります。許してください。」

「絶対に今後こんな事はいたしません。だからもう一度やらせてください。お願いします。」


が何で言えないんだろう・・・。 

僕の座右の銘『目前心後』

 『目前心後』という言葉を表した世阿弥という人は600年も前の超有名な能の役者・能作者です。近代の哲学者のように(デカルトなど)精神と物質の二元論を考えたわけではないと思いますが、ものごとを「二つ」<表裏・陰陽などのように>に分けることで対象を明晰に分析し理解しようとした人ではないかと僕は、思っています。



それは舞の舞台全体の流動に身をまかせている演者が陥りやすい陶酔や一元的な演技に釘をさす演劇的二元論だと考えられているようです。

      「箱崎」(世阿弥作 シテ・観世清和)

『 舞に、目前心後といふことあり。
 「目を前に見て、心を後ろに置け」となり。
  目前左右までをば見れども、
  後ろ姿をばいまだ知らぬか。      』

舞を舞う演者である自分は、目前や左右までは見ることができる。しかし自分の後ろ姿まで見ることはできない。

ここで世阿弥は、「離見」(自分を見られているさま)と「我見」(自分の見ている目に映ったさま)という概念を持ち出します。

 『見所より見る所の風姿は、我が離見也。
  しかれば我が見るところは我見也。
  離見の見にはあらず。
  離見の見にて見る所は、則、見所同心の見なり。  其時は、我が姿を見得する也。』

 つまり、観客が舞台上の自分を見ている視線と同じ見え方で考えて自分自身を見て(想像し見通して)、自分の眼では決して見ることのできない、自分の後ろ姿まで見よ、自分の姿の全体を捉えなさい、と言っているのです。 

 自分が演じている姿を自ら感じるのは「我見」です。観客席から自分の演技を見るのが「離見」です。その「離見」をさらに後ろから見ているように意識しながら全身に意識を通して演じなさい。という事にもなります。

  <離見の見にて、見所同見となりて、不及目[ふぎょうもく](肉眼の届かない)の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。>

 役者は、演じている自分とそれを客観的に認識している自分をつねに合わせ持たなければならない。 演技や役に没入する自分と、それを醒めた目で見つめる自分との二重性を生きることが、すぐれた役者の要件だというのです。
 世阿弥はおよそ600年も前に「目前心後」を『花鏡』のなかで『離見の見』と呼びました。

 もちろん、これは、能の舞だけにとどまらず、全ての人間の心身のあり方に通じるものだと考えます。 人においても、人生の生き様をどう演じきるかに通じるものであると僕は考えます。

 人は当然、目の前を見て判断し考えて行動しますが、同時にもう一つ心の眼で自分の後ろ姿も、いいえ、自分の全体の姿をも見よ、という教えです。前を眼で見、後ろも心で見る、これは悟りにも近いゆとりある心ではないでしょうか。    

世阿弥のような境地に到達するのは凡人である我々には、なかなか難しいかもしれませんが、
 
 辛い時、苦しい時、
ふと一歩離れて、自分を見つめ考えてみる。
その中から本当の優しさや厳しさも
自分が思い込んで決め付けてきた考え方も
自分がしっかり生きていこうとする目的も目標も
生まれてくるとは思いませんか?!

しかもそれを考えるにあたって

自分を見ている観客(相手)
どう思っているのか、
どう見ているのかを想像し、

それが
醜いもの(みにくい)であるかどうか、
(よこしま)なものではないかどうか、
卑しく(いやしく)ないかどうか、  

を道理や道義に照らし合わせて

自分の行動を見つめなおし、常に改めながら生きていく事が真っ当な人生を送れる方法だと考えます。


 うまく行かなくなった時は、皆さんも『目前心後』してみて相手やお客様の気持ちになって自分自身の所業を省みて(かえりみて)相手(お客様)が何を望んでいるのか、自分のどこがいけないのかを焦らずに考えてみれば、後手後手にまわる事の無い、10手先(自分の未来、将来)のための先手(対処法)が見えてくると思います。


 

「一つ」だけの結論ややり方に陥ることを避けようとするための二元論の人だという事です。

その極致が 伝書『花鏡[かきょう]』で世阿弥が説く「離見の見」だそうです。

一つだけの解決方法に頼るということの危険

今年の高卒の新入社員に対して、書いた内容です。


数学の先生が別解の必要性について述べた内容を読んで これって 学問だけじゃなく、社会の生き方にも当てはまると思いました。そこでその考え方を踏まえて書きました。


===========

今まで何かを解決する方法を考えるときに考えが浮かんだら、他の解決方法を考えないで確認もせず、そのまま考えずに実行して来ていませんでしたか?!


 就職もない状況で「先生も親も困るから面接も合格したし、良かった。良かった。後は、社会人になれば自由もきくし、これから万々歳だあ・・・。」と思ってはいませんか?


これからどういう人生を送っていくのか?良い人と巡り合ってどんな人と結婚して幸せになれるのか?


難しいことばかり言うつもりもないし、最初に心構えをちゃんと持って仕事に取り組んでくれさえすれば、自分がこれから稼いで自分で使える自由もあります。楽しいこともちゃんとあります。

ただ、世の中にはいろんな人がいて君たちをもしかしたら騙そうとしているかもしれません。
そういうことにも気をつけながらこれから損をしない社会生活をして自分はもちろん親にも悲しい思いをしないように生きるという事だけは覚えたうえで行動してくださいね。

これから話をすることは、損しない方法です。皆さんも損はしたくないですよね。僕も同じです。


一番損するのはどういう時でしょうか?!それは何か問題がおきたときにどう解決するときだと思います。

解決方法を間違えるとあるときは取り返しがつかない事もあります。

いい解決をするための方法についてお話します。
 
物事には何通りかの解決方法があります。

それは人がいろんな生き方をしているのと同じです。

まったく同じ生き方をする人は世の中には一人としていないのです。

それなのに現代人それも日本人のなおかつ若い世代は、特にそういう思考をしないと感じています。


「今考え、よく見極め、すぐ行動する」

よく僕のいう言葉ですが、まず、物事を考えその解決方法の導出過程(導き出すプロセス)において、

あるひとつの方法を見つけ出した時や人から教えてもらったり、

今までの経験上で知った方法があった時に、何の根拠もなく、理由もないのに最良の方法、

より効果的方法を探すこともなく、その方法を取ることを安易に決めている場合はないですか?
考えてみれば、そういうふうにしている事だらけじゃありませんか?


何故、別の方法(すなわち、別解)を考えないのでしょうか?
経験や教えられてきたことが正しい、間違いないという根拠はどこにあるのでしょうか?
今度のケースに合うという理由はどこにあるのでしょうか?
今までの経験での自信についての確認検証は済んでいるのでしょうか?
ほとんどの場合、済んでいないのではないでしょうか?


別解というのは,その名の通り、別な解決方法のことです。

それは、同じ現象をいろんな側面から見ることで生まれます。

しかしまた,その現象に対する理解が深まれば,それほど本質はそんなに離れていないということもわかるはずです。

また、その複数の解決に共通なこととして、複数の方法を考えることで現象に対する理解が深まる、ということもあるわけです。


とにかく必要なことは別解を複数考えるおもしろさに気づき,日頃から一つの解決方法だけに満足せず,頼らず、他の解決方法を考えるようにすれば,理解力が飛躍します。

別な解決方法(すなわち別解)を考えることは人生のいろんな生き方を考えることそのものであることはこれでわかってもらえると思います.ただ、どんな方法も幅があります。この生き方の幅をつねに考える。


一つの問題に対して,いろんな解決方法とその相互関係がつかめて,はじめてその問題が判ったといえるのです。
実際の場面でいろんな方法が浮かんで迷うことはないか、という疑問がありますが
それは、いろんな解決方法が浮かんだら,その方法が解けたということですので、どの方法で生きたり、思考していくかは大きな問題ではないのです。
それより,日頃からいろいろと別な解決方法を意識していると,問題を多面的に見ることができ,どれかの切り口から解決の糸口がつかめるという利点のほうが大きいといえます。
 
仕事の場合でいうならば、
学校の勉強は理解し、だいたいにおいてできるのだが,それでは勉強が面白くないか、というとそうでもない.他人には別な方法を聞いたり教えてもらったりすることは、自分のやり方と比較して整理して先生や親が別解をいろいろ教えてくれる人かどうかに関係なく,自分で別解を究明できるようになり、力をつけることになります 。自分で考え他人には別解を聞く.そして自分で整理しなければ結局人生において損をするのです。
 
ある問題が起こり、解決方法を考えるときに 普通考えられる一つの方法で解決しそうでも,
それで終わらず 、いくつか考え出し、

これを第一の方法でやるのは、ある事情で難しい。
 
第二の方法なら,不可能ではないが,複雜になる。

それに対して第三の方法は,そのまま実現できる。ただし,実現するためにはいくつかの問題を解決しなければならない。といういくつかのアイデアや方法を考え、それを
 
(1) より簡単になったり単純化出来たり、要約できるやり方を用いたうまい方法はないか.
(2) 一般的に成立するのか.またその場合に通用する方法はないか.
(3) まったく発想を変えた別の方法はないか.
を考えるのです。


①「奇抜な方法」は、たくさん発想できる人もいますが,これは実際に問題に向かったときいつも思い浮かぶわけではないので3番目に考えます。しかしできればおもしろい.考える価値はあるので、必ず最後に考えるようにする。その際は全く逆の視点から天邪鬼的に思考したりする「天邪鬼発想法」みたいなものごとのとらえ方をしてみるといいと思います。
 
②さてまずは少々下手でもかならずできる普遍的な方法を1番目に考えます.つまり、通常一般的で考える順序として1番目の方法であるし,それを一つ一つ消去法的解決をしていくのがいいと思います.一般的常識的にそれが成功する早道だと考えるからです。


③そしてその方法で解ければさらに別な方法で一般化の試みをします。まず問題を一般化して見る。全く別なケースに置き換えてみたり、たとえ話や極論にしてみるのです.それをして無理だと思ったら今度はその状態で条件の一部を外して考えてみます。そして一般化しても成立、実現しそうだと見当をつけたら一般的な場合にも通用する条件を考えてみるのです。


④その上で問題がひとつの方法で解けてもそれに満足せず、常にこの辺りを意識して考えておきます.それは必ず他の場面で生きてきます。


これを最低でも3回繰り返すように心がけましょう。3つぐらいの方法を考えておいて自分で確認をすれば失敗の確立が飛躍的に低くなります。


1つの問題について,このようないろんな側面から考えたらいいと考えます。違う問題にそれぞれ同時に向かうより,ひとつの問題を 2通りの方法で解く方が力がつきます。なぜならそのことによって,他の関連した問題が一気に解けるようになるからです。そうなればただ、単にマニュアルを覚えるより、いろんなことに対処できるようになって、新しいことでも対処できるようになって自信がつきます。


そうしないといつまでも自信がなくて何度でも人に聞かないといけなかったり、自分で自発的に行動できなかったり、ひとりで何にも出来ないようになってしまいます。これから社会人になるのですから、自由にひとりで海外旅行でもいける人間になって欲しいものです。


そのためにもこのやり方をきっちり覚えてくださいね。

 

生産性を向上させなければ、結局、自分の収入は増えない。

この10年において日本の企業の多くは、バブル崩壊後の不況を乗り切るために急速に「生産性」を向上させてきました。


生産性とは生産活動の効率性を示す概念で、一単位当たりの生産要素(労働力、設備、エネルギー、原材料など)によって、どのくらいの量を生産できるかを示すものです。


この生産性の向上にはIT投資が大きな影響を及ぼしました。

特にアメリカではIT産業だけでなくそれ以外の企業でも大きく生産性が向上しています。

弊社においてもITのインフラ例えばグループウェアを定着させるのにずいぶん苦労しています。

今も電子会議室などの活性化をその都度図らなければすぐにしぼんでしまう状態はいまだに改善されていません。


25名ほどの会社ですが、グループウェアとしての作業は確かに増えていますが

情報の共有という面で異常なほどのスピードで報連相が行われて無駄が少なくなっている効果については、社員も認めています。それがあったから今があるのです。


もちろん会社の生産性向上には、従業員ひとりひとりの生産性向上だけでなく、会社自体としての変革としてのリストラやリエンジ、効率化のためのIT投資なども、重要な経営課題ですが、弊社のような会社が急速にそれを実施している過程においては、それだけで済む問題でもなく、個人の問題も大きくとらえなければどうしようもありません。

生産性を上げるということは、同じ付加価値を生み出すためにそれまでよりも少ない経費や資金、資源や生産要素で済ませるということでもあります。


ITの投資は、弊社としてもずいぶん以前から進めてきました。

そのおかげで他に見ない情報集約性を自前で持った事も事実です。


ところが規模が小さくてもコストが安くて情報の得られるインターネットの普及とその活用を更なる高度な形で取り組まなかったために、他社が中古ビジネスに参入して、相対的な競争力がなくなってしまったのです。


しかも魅力間で相対的になくなってしまった。そこのところを勘違いしていた社員に気づいてもらうのにこの2年間費やしました。


生産性向上を目指すのは、企業にとっては当たり前のことで去年より弊社にしてもそれを実施してリストラ終了宣言をし、リエンジに着手した訳です。そうでなければ今もありません。


ただし、同時に社員の個人レベルとして見ると話としては大変な事にもなります。

会社の生産性を上げるということは、逆に前に比べて会社は個人に対して高い生産性を要求しなければならないということにもなるからです。


厚生労働省の試算では、賃金のほかに社会保険料やそのほかの福利厚生費、教育費などを加味した労働費用全体で見ると、新人を一人新たに雇うよりも既存の社員に残業代を5割増で支払うほうが安くつくと考えられ、激しい競争にさらされている市場の企業が生産性を高めるため「ひとりの社員をとことん使う」傾向は強まっているようです。


それは長時間のサービス残業を行うとか、パソコンのスキルを高めるといった単純な話ではありません。

いや、出来ればそのような方法だけで対処できるような時代でもないし、それを行ったからといって各人の幸せの充実感が得られるとは私は思っていません。


それではキリギリスになってしまいます。

これからは、毎日の仕事の中で、自分自身がより多くの付加価値を生み出していけるよう、意識し考えることが大切になり、とても重要な事になります。

それによって働く一人の個人としては、所属する組織の生産性向上に寄与するメンバーとして、自己の生産性を高める努力を怠らないことが、結局は自分自身をも守り、活かすことになるはずです。

そしてそれで得られた結果と実績こそが評価され還元される指標になります。

その指標を自分たちで作っていかなければ、還元はありません。社員が組合を作る意思があるなら、作っていただきたいぐらいです。

それぐらいの気概をもってことにあたってもらいたいと思っています。

その上で団交するぐらいじゃないと、私自身も困ります。依存されてばかりでは、非常につらいです。


言い方は悪いですが、おんぶに抱っこで、「楽しくて平和的に生きて生きたい」なんて人間を抱える事など出来ないのです。しかもそれをうまく隠して誤魔化して他人に迷惑をかけてでもパラサイト(寄生)し間違いだと気づいても直す必要がないというような人間と一緒にやっていけるはずもありません。

今、私はその点について奮闘している最中です。

やっとこれを人に話せるようなところまで来ました。

一人ひとりが生産性をあげる意識を持たなければ、いくら社長一人が理解していてもどうしようもないということが私自身を含め、浸透し始めています。

個人の生産性向上

個人の生産性向上って?!

今日は、これからの景気の状況と 自分の会社の社内意識と実際について書いてみたいと思います。

日銀が2004年7月5日に発表した「生活意識に関するアンケート」によると
1年前と比べた景況感が「良くなっている」と答えた割合から「悪くなっている」と答えた割合を引いた数値はマイナス14.9。
マイナスつまり「悪くなっている」という人のほうが多いそうです。この十年間のアンケートの中で一番低いということらしいのです。

その一方で個人の生活実感について、「悪くなっている」が「良くなっている」を上回っているそうです。
大企業の景況感が大きく改善している状態とは大きく異なり、景気回復の広がり感が出てきている事は感じながらも多くの個人は、自分の仕事や収入にいい影響がないと感じているようです。 
皆が個人として「生活が良くなってきた」「良くなりそうだ」と思うのは、「仕事が増えた」「受注が増えた」を感じて、その結果として「給与、収入が増えた、増えそうだ」と感じた時ですよね。皆、その手ごたえを感じられないのです。

政府にしても、景気の回復と雇用の回復の関係について
『これまでは、日本でもアメリカでも、景気が回復するとかならずその後雇用が回復するという傾向があったが、
この10年でその傾向が徐々に変化し、近年では景気が回復して企業の利益が拡大しても、雇用は回復せず、また就業者の収入も増加しなくなってきている。 』
と考えているようです。

私自身も全く同感です。80年代中頃、不景気にはじめた中古家電ビジネスは、ビデオの登場ですごくあたりました。
高い商品の程度のいいものがとても売れたからです。
90年代に入るとパソコンで伸びました。90年代後半からは、携帯電話で規模が拡大しました。
伸びている時は、期待で「良くなりそうだ」と感じていました。

その時々の最新式のものを程度のいい中古を探し集め、低価格で売るというスタイルが時流に乗ったのです。
次の携帯電話は、まさにビッグヒットでした。「売る」というより途中からは「売れる」という状態だったのです。
売るための技術などいらないぐらい売れました。どんどん、販売員の質が悪くなってきました。
ところがその時に、単純に人員を増やす事で効率を考えず拡大させてしまったのです。
もちろん、効率化については、その都度、指摘し改善を目指したのですが、現場として効率化を考える必要がなく、
また、人員が足りなくなると場当たり的対処をせざる得なかったので、どうしても効率を考える事は後回しにされてきました。
非効率であっても維持さえされていれば、良かったからです。
現場は維持を目指します。そのための目標が設定され、目標をクリアさえすればいいという状況が生まれました。
ところが目標をクリアしなくても注意指摘されない理由や状況があれば、現場としてクリアする必要はあるでしょうか?!
私が現場であったとしても私自身としての必要は感じません。

ただ、問題だったのは、その時にちゃんとした分析が為されず
思い込みや決め付けで理由を求めてしまい、その対策として別解を求めなかった事が最大の原因であると分析しています。
規模が拡大し、成長しても100から150に増えた仕事を二人がかりでして人員を無駄なまでに増やし
忙しい忙しいと、無駄な仕事を増やしていった結果なのです。
その上、勘違いをして更なる拡大で乗り切ろうとした事も大きな原因の一つだと思います。
そこに今度は、市場の変化が来ているのに対応しなかったのが2年前までの状況だったのです。
「この不景気を乗り越えれば、また景気が良くなって楽が出来る時代が来る。」と信じていました。

勘違いしては困ります。
責任転嫁するつもりもありません。
私自身に責任はあります。社員に責任を押し付けているわけでもありません。
社員は言われるまま、現場を維持するという指示を受けてその維持に一生懸命だったからです。
その時は、それさえすれば、良かったのです。何も怠けていたなんて思いません。
それなりに頑張っていたことは、認めてます。
ただ、これからはそうはいかないと考えています。