先日、叔母が亡くなりました。
ご主人(義叔父)を35年前に亡くしてずっと一人で生活をしていました。
84歳老衰でした。
身よりはうちの家族だけで、看病、看取り、葬儀、手続き、そして、遺品の片付け・・・etc
その遺品の片付けを先日してきました。
巨大団地の一室に40年間暮らしていました。
正直、荷物の多さにうんざり、泣きたいくらいでした。
それでも、片付けながら叔母が大切に積み重ねてきた人生の一角が見えました。
大切なご主人との思い出の写真だったり
大切にしていた品々がたくさんありました。
捨てられない、宝ものだったのでしょう。
でも、他人から見たら、それはただの不用品、思いれがあってもゴミとなります。
手分けをして、片付けてゆきながら、様々な事を考えました。
片付け物をエレベーター運ぶ途中で、喪服の男性と一緒になりました。
「片付けですか」と尋ねられ、私は「独居の叔母の遺品整理です」と答えました。
男性は「私はこの団地で昨日兄が亡くなていると連絡があり、引き取りに来ました、でもどこから手を付けてよいか当方にくれています」とのお話でした。
叔母は、病院はコロナやインフルエンザ感染予防で真面な看病にも行けずじまいでした。
それでもたまに顔を見に行った時は「ありがとうね」の感謝言葉をいつも言ってました。
「独生独死独去独来」(仏説無量寿経)つまり、私たちは、どんな苦難も一人で立ち向かって行かなければなず、代わるものはありません。
そして築き上げた、地位も財産もこだわりもすべて置いて行かなければなりません。
それでも人間は独りで生きてゆくことはできません。
でも、独りでしか自分の人生を歩む事ができまん。
この厳しい現実に直面するからこそ、人間は懸命になって人との出遇いを求め、家族や仲間を求めるのではないのでしょうか。
仲間や家族と手を携えて生きていこうと願うのではないでしょうか。
人生の幸せ、人との素晴らしい出遇い、そして関わり合い、その幸せは、「お互いが独り」であることを厳しく認め合ったうえに成り立つものではないでしょうか。
「生と死」は、それぞれの人生、そして悩みつまづきながら歩む人生。
そういう事をいつも布教や法事でお取次ぎをしています・・・・でも
片付け終わって、何もなくなった部屋をしみじみ眺めて、涙がでました。
それでも、今日も明日も、私の人生を生かされ歩んで行きます。