新潮45に掲載された小川の珍文。

 当然ながら非難殺到しているが、性懲りもなく小川はくだらぬ弁明を連ねている。

 

 (以下、小川のFacebookより)

 【恐怖社会】以下の方のツィッター、報道で、私への暴言か、新潮45編集部への恫喝がなされています。高橋源一郎氏は私の文章を便所の落書きだと言いましたが、高橋氏の小説とは違い、私の一文は便所の落書きではありません。れっきとした「文章」です。私は主義主張や好みが違おうと、大江健三郎氏や村上春樹氏の文章を汚い言葉で難じた事はありません。なぜならそれは確かに「文章」として成立しているからです。私の「文章」も一字一句考えぬかれたものです。反論があれば「きちんとした文章」で反論してください。(後略)

 

 新潮45に出したあの珍文、高橋源一郎氏が「便所の落書き」のようなものと批判したことに対して、れっきとした「文章」と反論している。

 満員電車での痴漢行為を合法とすべしという主張が、便所の落書きレベルというのは的確な表現だが、ご本人は不満らしい(笑)。

 さらに自身の珍文を大江健三郎や村上春樹の文章と対比させている。どんな勘違いなのだ、このバカ。

 

 ツイッターでは、「小川の秘書」なる者が、小川のアカウントで出したツイートが話題になっている。

 

 『(秘書雑感)そうそう。☆1のレビューは、拝著を読まずに書かれたレビューばかりなんですよね。』

 

 アマゾンでの評価についてのツイートである。「☆1」とは最も低い評価なのだが、本を読まずに低評価をつけているだけだと言いたいらしいが、「拝著」とは何だ、とネタになっている。

 おそらく拙著と間違えたのだろうが、通常の知性があればあり得ない間違いだろう。

 変換ミスというのはあり得る。うっかり返還ミスとなってしまうようなことである。拙著と拝著は変換ミスではあり得ない。

 保証と保障と補償、意思と意志、実態と実体。

 同音で意味が近い熟語、間違いやすいが、これらにも当てはまらない。

 拙は訓読みすれば、「拙い」。拙者とはつたなき者、拙著はつたない著書のこと。日本語らしい遜った表現である。

 自称「文芸評論家」、「伝統的保守主義者」が、そんなことも知らぬのか。

 もう一つ、秘書ならば、「小川の著書」などとするはずである。秘書と称して自身がツイートしたのだろう。

 バカはどこまで行っても、バカ。どこかにバカが露呈する。