富田メモをご存じない人のために、もう一度説明しておきましょう。
昭和天皇は、1989年1月7日に亡くなりました。
昭和天皇の側近として、宮内庁次長を1974年から78年まで、宮内庁長官を78年から88年まで務めた富田朝彦氏は、昭和天皇と会話した内容を几帳面にも手帳14冊、日記帳13冊、計27冊に記録していました。
その膨大な記録の中で最も注目されたのが、亡くなる数か月前、1988年4月28日のメモにあった靖国神社についての発言です。
「 私は或る時に、A級が合祀され
その上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ 」
日経新聞社は、2006年5月に富田氏の遺族からメモを入手し、日本史研究家である秦郁彦・半藤一利の両氏に確認を依頼しました。
そして同年7月20日朝刊一面トップで報じることとなるわけです。
それまでの櫻井らの主張を否定する決定的な証拠が出現したわけです。
この証拠出現に対して、櫻井はどのように対応したか。
自らの誤りを認め、謝罪するなんてことは絶対にしません。
「アホになって対応」するのです。
「バカ呼ばわりしておいて、今度はアホ呼ばわりか」というツッコミはともかくとして、「バカがアホになってどうするんだ」というツッコミもともかくとして、この当時、「世界のナベアツ」という芸人が売れていました。
彼の芸は、1から順に数を数えながら3の倍数と3のつく数字で「アホになる」というもので、その数字をいう時に奇声を発し、アホの顔芸をするというものでした。
櫻井は都合の悪い証拠の出現にアホになって、国語力を失います。
富田メモの「松岡、白取(白鳥)までもが」という部分には裏付けがあるものの、「A級が合祀され」という部分は理解できない。東条英機らのことを指すとは理解できないというのです。
「その上」と言葉にあるわけですから、まずA級戦犯の合祀が不快であり、さらに松岡洋右と白鳥敏夫の合祀が不快であったということは、小学生でも理解できることですが、櫻井の国語力では松岡、白鳥以外の者の合祀について不快感を示したとは言えないとの解釈を主張していました。
なお、昭和天皇が松岡と白鳥を他と区別したのは、両名は外交官あるいは外務大臣であり「軍人」ではなかったこと、しかも絞首刑に処されたわけでなく、拘置所で病死していることからと考えられています。
この件に関しての櫻井らの主張は、まだ懲りずに続きます。