損得勘定の本能寺! | さすらいの武士

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天下統一も目前の天正10年6月2日1582年6月21日)早朝、明智光秀謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した。

信長公のご遺体は遂に見つからなかったが、その後の歴史に織田上総守信長の名は決して登場しない。
やはり亡くなられたのは紛れもない事実だろう。
日本中に敵の多かった信長公は敵武将のみならず、彼に怨みを持つ者は家臣の中にも存在したようだ。
実際に彼は戦国の世の中でも人一倍多く、家臣を殺害したり放逐したりを繰り返している(^_^;)
歴史上は本能寺にて信長公を討ったのは明智光秀とされているが、確かに実行犯は彼だとしてもその背後に誰か大物がいた事は考えられないだろうか?
徳川家康に関しては本能寺の変の直後は、多くの歴史書が伊賀越えで逃亡したと伝えているようだ。
と言う事は家康公自身も本能寺の変においては、粛清の対象として黒幕から狙われていたと言う事だ!
どのような謀り事もその黒幕はその後一番得をするであろう者とされている、本能寺の変以降日の目を見た武将と言えば間違いなく羽柴筑前守秀吉だろう。
もしも秀吉が光秀と共謀していたとしたら、中国地方からの長征で疲れ果てた軍勢が、士気旺盛な明智軍を容易に破った理由すら見えてくるかも…
明智軍に加勢すると信じ込まれていた羽柴軍に、背後を突かれたとしたらひとたまりも無かっただろう。