夏の終わりのはずが

とんでもなく暑かった。


息子にとっては

納骨以来

5年ぶりの墓参り

念入りな掃除をさせた。


息子がブラシで

赤茶色の苔を落とす


娘と私で水をかける

刺すような日差し


ここには

義父母と夫が眠る


かつて私は

墓を持つことに異議を唱えた。

住まいから200キロ離れたこの土地に

墓参りのために、延々と

やってくるのに現実感がないのと、

こうして新たに誰もが墓を持てば

空いた土地が墓だらけになる。

生きてる人間の方が

土地を有効に使うべきではないのかと。

持論を夫にぶつけ、

納得させたつもりだった。


しかし、夫は心で反発し

私に反論しないまま

この見晴らしの良い墓地を購入した。

義姉が

当然墓を立てるべきだという考えだったし

私は責任を半ば放棄したような気持ちで

追随したのだった。


土地を手に入れたものの

石塔を建てるまでに

何年もかかった。

幾度もの

義姉の催促にも

踏ん切りをつけない夫


義姉が痺れを切らして

懇意の石屋さんに

発注してくれたのを知り、

私は

ぐずぐずと決められず

行動出来ない夫を

なじった。

価値観の違いはあれど

義姉の思いに

誠実に速やかに応えるべきだと思った。


今振り返ると

この時期の夫は

抑うつ状態だった。

不景気が

仕事の質を

厳密にし、

量を増大させ始めた時期だった。

ただでさえ神経質で

繊細な夫は

かつてのように伸びやかに

自分を出せない職場環境や

仕事の内容そのものに

苦しんでいた時期だった。


それでもその後10回くらいは

一緒にここへ来ただろうか。



あまりにも早く

夫がこの墓に入ることになり

私は

この墓の存在に救われることとなった。


墓についての持論は

変わらずにあるのだが、

それは頭で理性的に考えたことであって、

この夫の生まれ故郷を

訪れるたびに感じる

懐かしさや心地よさ、

豊かな土地の美しさに

心身が反応するのだ。


そしてともすれば

ばらばらになりそうな

家族を一つにして向かわせる

墓参りの意義を

改めて実感したのである。