早乙女バッハの独り言 -554ページ目

僕の笑顔の秘密

僕の一番の武器って「笑顔」なのかな?

ソロパフォーマンスでもただひたすらウロウロして、たまにセンターに立ち止まって、ゆっくり笑顔を見せる。

僕が笑顔を見せるたびにお客さんは大爆笑して喜んでくれる。

なぜか?わからないけど。

この笑顔一つでスイスも成功させた。


僕の家族は5人家族でした。

僕には兄と妹いまして、親父は他界してしまいましたが、生前は部類の大酒のみ。腕利きの建築職人でしたが、元はヤクザでした。

給料のほとんどが飲み代に消えていました。

飲んでは毎日大暴れして。

窓を一升瓶で突き破り、母親の髪の毛をつかんで、その割れた窓に頭を突っ込ませた場面は僕のトラウマになっています。

兄は大きくなると毎日、親父と取っ組み合いの喧嘩。僕はそれを止める役。

毎日、毎日包丁を振り回して、僕も何度ナイフや包丁で刺されそうになった事か。


給料の大半を使い切ってしまうので、家族5人で6畳一間の激安アパートに住んでいました。家賃は5000円だったかなぁ。


そんな感じで僕の家庭はいつ離散してもおかしくない状態でした。


だから学校に行くと、僕は楽しくて楽しくて。

常にニコニコしていました。

何も心配しないで過ごせる場所が学校しかなかった。

無条件で楽しくてニコニコしていた。


まわりの人からは「もーちゃんは悩みがなくて良いなぁ」と羨ましがられていたくらいです。

本当にニコニコしていた。


大人になるにつれて、そんな環境で育ってきた兄貴はかなり性格がゆがんできて、おとなしくしている親父に喧嘩を吹っかける状態にまでなり、僕はそんな兄貴が世界で一番嫌いな人間になってしまった。


僕が高校に入る頃には毎日兄貴と喧嘩して、親父の暴走を止めて....僕が柔道部のマネージャーに旅行のお土産としてお菓子をもらい、帰りのバスの中で食べようと思ったけど、こんなお菓子を食べるのは最後かなぁ....なんて思ったりした事を妙に覚えています。そのお菓子は、あんまりお菓子なんか食えなかった母親と妹にあげたんだけどね。あんな小さいお菓子を二人で分けて食べていたっけ。


そんな中だったので、高校の頃は学校にいるだけで心の底から嬉しくて、楽しくて....心の底の底からニコニコしていました。


おそらく僕の「笑顔」が舞台で、世界でウケタのは....こんな暗い部分が見え隠れするからなのかなぁ??


基本的に僕は自分の笑顔が大嫌いです。

自分の笑顔を鏡なんかで見るたびに、ヘドが出そうです。

若い頃の家庭環境から逃げようとしている笑顔にしか見えません。

こんな最低の笑顔でも、お客さんは喜んでくれるんだなぁって、嬉しいです。

思い出の舞台vol.1

僕の一番の思い出の舞台は4年前に南青山にある「月見ル君想フ」というライブハウスに出演した時ですね。

あの頃は、まだ普通に正統派のフラメンコを舞台で踊っていた。


その日もいつもの様にフラメンコの「ブレリア」を踊っていた。


僕が踊っているとお客さん達は「なんだ、あの野郎すかしやがって」と言う人もチラホラいたという。


ライブハウスのお客さんってフラメンコなんて見たこと無い人がほとんど。

だからフラメンコ特有の「遊び」を知らない。

終わったと見せかけて終わっていないとかね。


僕は自分の振付の中で2コンパス、両手を挙げたまま静止した。


するとお客さん達は「あの人、振付忘れたんじゃない?」とか、ざわざわしてきた。


なんか、僕はおかしくなってきちゃって、口元が緩んでしまった。


すると「あの人、ニヤニヤしてる」って、若いお客さん達が言い始めてきた。


....もう、僕は我慢できなくなりました。

舞台上で、大笑いしてしまった。


んで、正統派のフラメンコなんかじゃなくて、フラメンコの音楽を流しながら、僕は腰をグルグル回し始めて、ふざけて踊り始めた。


すると満場が大爆笑。


僕もノリノリになり、即興でお笑いダンスを踊り始めると、もうお客さん達は笑いの坩堝。


さっき僕をすかしてんじゃんって言っていたお客さんも「あいつ、なかなかやるじゃん」って、その日のライブで一番の盛り上がりを見せました。


その日から、そのオーガナイザーのライブにはレギュラー出演する事になり、毎回お笑い系のダンスを即興で踊り始めました。


それが、いまの僕のただひたすらウロウロニヤニヤしているだけのスイスでオオウケしたパフォーマンスに結びついたわけです。


あの日に僕は殻から抜け出して独自の世界に突き進むキッカケになりました。

今日は肉男になりました


パピヨンの独り言
会社での写真です。

頭に「肉」と書いたセロテープを貼られてしまいました。

助けて~