そばにいて

 

 

 

 25.あなたの声が聞きたい 1

 

 

 

  その間もずっと耳鳴りのように、さっきの愛花の声が繰り返し鳴り響く。

  そんなはずはない。吉永君が何も言わずに引っ越してしまうなど、ある

 わけがない。優花は自分自身に何度もそう言い聞かせ先を急いだ。

  マンションの三階に差し掛かった時、ためらうことなく彼の家の前に

 向かって走った。

  表札はまだかかったままだった。YOSHINAGAとローマ字で綴られた

 シンプルな表札は昔のままだった。子どもの頃、YとOの文字を真っ先

 に覚えたのを思い出す。吉永君のよの字だ。過去に何度も鳴らしたこと

 のあるインターホンに指をあててみる。何年ぶりだろうか。

  一回、二回、三回……。何度押してみても同じだった。中からは何の

 返答もない。玄関前のポーチに置いてあった自転車も見当たらない。

  おばさんが育てていた鉢植えももうどこにもなかった。 

  優花はまだ何も信じられずに、玄関扉を凝視したままそこに立っていた。

  後ろを通る人が怪訝そうにこちらを見ている。グローブを持った小学生も

 まるで不審者でも見るような目つきで優花の顔を見て、目が合ったとたん

 逃げ出すようにその場からいなくなった。

  ついに居たたまれなくなった優花は後ろ髪を引かれる思いで、彼の家

 の前から立ち去ることにした。

 

  階段を降り、マンション前の道路に出る。

  引越センターのトラックはどっちの方向に行ったのだろう。

  もしもおじいさんのいる長野に向かったのだとしたら高速道路のゲート

 がある右手側に行ったのかもしれない。

  当然、その方向を見たところで、トラックがその辺りに停車しているはず

 もなく。優花は途方に暮れたまま、ただただ車の流れを目で追うのが

 精一杯だった。

  そうだ。駐車場に行けば、何かわかるかもしれない。

  優花は咄嗟の思い付きに、急に目の前が明るく開けたような気分になる。

  もし吉永君が帰って来ているなら、おじさんの車が停まっているはずだ。

  そう思うだけで、自然と足取りも軽やかになる。

  マンション裏手にある駐車場に大急ぎで向かった。

  確か、五十六番だったはずだ。石水家の駐車場と同じ並びで、吉永家の

 スペースは一番奥になる。祈るような気持ちでぐんぐん奥へと進んでいく。

  ここは市内でも類を見ないほどの大規模なマンションなので、世帯数も

 多く駐車場も立体から平面とそれはもう迷路のように設計されているのだ。

  どうか車がありますように、と願いながらようやくたどりついたのだが……。

  ブルーグレーのワゴン車は、そこにはなかった。アスファルトに直接書か

 れた数字がくっきりと浮かび上がる。

  五十六番の数字が優花の目にダイレクトに飛び込んで来た。

  彼の家族も、もうすでにここにはいないという現実を突きつけられる。

  今、優花の目の前で繰り広げられている出来事が、嘘偽りのない真実なの

 だと思い知らされたのだ。

  吉永君は、本当にどこかに行ってしまった。

  隣のおばさんが言ったように。

  そして、愛花が叫んだように。

 

  優花は行くあてもなく歩き始めていた。車の往来が激しい道路の脇を

 とぼとぼと歩く。秋の終わりを告げる風は思いのほか冷たくて、制服の

 胸元のすき間をぴゅーっと冷気が通り抜けていった。

  向かい風に首をすくめ、ぶるっと身震いをする。なんという寒さだろう。

  露わになった肌の各所に容赦なく冷気が襲ってくるのだ。手にも足にも

 そして頬にも。

  その時、目に何かが入ったような気がした。砂ぼこりだろうか。

  するとまるでそれを待っていたかのように、優花の目から次々と涙が

 こぼれ落ちていく。手の甲でこすってみても、涙は一向に止まらない。

  砂ぼこりを流すには十分すぎるほどの涙なのに、泣くことをやめられ

 なかった。

  立ち止まっては涙を拭い、また歩き始める。

 流れ続ける涙は、風が強いからだ。こぼれ落ちる涙は、目に砂ぼこりが

 入ったせいだから仕方がない、などと泣いている言い訳を考えながら

 尚も歩き続ける。

  最初は涙が勝手に流れ出るだけだったのに、それだけでは説明の

 つかない自分の異変に気付き、ふと我に返った。

  それはまるで小さい子どもが母親の手を引っ張って、いやだいやだ

 と駄々をこえているような感覚に似ていた。いつの間にかしゃくりあげて

 声を出して泣いている自分がそこにいたのだ。

  すれ違う人が振り返る。信号待ちをしている車の窓からも、見知らぬ

 人の視線が注がれる。でもそんなことは、もうどうでもよかった。誰に

 見られてもいい。何を言われてもいい。優花はただ。ただ……。

  吉永君に会いたかった。真澄ちゃんに会いたかっただけなのだ。

 

 

 

 

 

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