そばにいて
22.ふたり 1
吉永君のおじいさんの具合が相当悪いようだ。優花は足元に飛んで
来た枯れ葉をぼんやりと目で追いながら、彼の話に耳を傾けた。
「今夜オヤジが帰ってきたら、車で長野に行く。それで。もし、じいさんが
その、死ぬようなことになったら。しばらくはこっちに帰れない」
吉永君が低く小さな声でそう告げた。
優花を取り巻く時間の帯が、急に動きを止める。周りの景色がまるで
写真のように奥行きを失くし平面にしか見えない。コキアの植え込みから
黒い猫が怪しく瞳を光らせ、こちらを見ていた。にゃーおと鳴き、再び姿を
隠す。
とっくの昔に遠くのビルの谷間にのみ込まれていった夕日は、周囲の
雲に夕焼けの残骸すら与えず、漆黒の闇に塗り替えてしまった。雨の
匂いがする夜風がすーっと頬をかすめ、ゆっくりと忍び寄って来る夜の
帳(とばり)に背中がゾクッと震えた。
「なあ、ゆう……」
長い長い沈黙の後、彼が語りかけるようにそう言った。何かを思い出し
たのだろうか。それともこれと言った理由もなく、ただ優花の名前を口に
しただけなのかもしれない。
「なに。真澄ちゃん」
一呼吸、あいだを空けて、そっと返事をする。
「この前、言ってたよな。俺のじいさんのぶどうが、日本中の果物の中で
一番好きだって」
握ったままの手にほんのわずかだが力が入ったように感じた。優花も
彼に合わせて優しく握り返し答えた。
「うん、言った。だって本当なんだもん。おじいさんの作ったピオーネって
お店で買うのよりずっと甘いし、大きいし。とってもおいしいと思う。何か
特別な栽培方法でもあるのかな? 」
「どうだろ。俺もよくわからないけど。肥料とか土作りとか、結構研究して
たみたいだけどな。農協や大学の研究所なんかからも共同開発の依頼
があったりして、農家は一生勉強だ、とか言ってたよ」
「へえー。おじいさん、すごいね。そうだ、おじいさん、真澄ちゃんの顔を
見たら、病気も早く治るんじゃないかな。おじいさん、きっと元気になるよ。
だから、来年もまたおいしいぶどうが作れるって。絶対治る。絶対に! 」
優花には吉永君がほんの一瞬、わずかに微笑んだように見えた。でも
細めた目はやっぱりどこか寂しそうで、暗闇の空間を、あてもなくただ視線
をさまよわせていた。
「そうだな。じいさんには、絶対に治ってもらわないとな。これからもずっと
あのぶどう、ゆうに食わせてやりたいし」
つないでいた手をふと離し、吉永君が膝の上に肘をつき両手で額の辺りを
覆って、うつむいてしまった。
「真澄ちゃん……」
彼が苦しんでいるのが伝わってくる。遠く離れたところで病気と闘っている
おじいさんのことが心配でたまらないのだろう。
優花は今まで彼とつないでいた自分の右手を左手で包むようにして胸の
辺りに持って行き、吉永君のおじいさんの具合がよくなりますように、と
心の中でひたすら祈り続けた。
「なあ、ゆう。おまえが昔言ってた将来の夢、今も変わってないのか? 」
つい今までの苦悩した様子から一変して、笑顔を浮かべた彼が優花を
見て訊ねた。そうだ。先日、バスターミナルで見送ってくれた時に見せて
くれた、あのふわっとした笑顔だ。
「ほら、アナウンサーになりたいって」
「ああ! 」
なんだ、そのことかと、少々の時間を費やしやっとのこと彼の質問の意味を
理解する。ところがすぐ隣にいる吉永君が、まだじっと優花を見ているのだ。
こんなにドキドキするのは、優花の人生の中で、そんなに経験することでは
ない。彼から視線を逸らせるのは、今のこの言いようのない気恥ずかしさを
我慢するより難しそうだ。至近距離で見つめ合うことの喜びと苦しさを、優花
は生まれて初めて味わっていた。
自然と回数の増えてしまうまばたきに決まりの悪さを感じながらも、なんとか
彼の目を見ながら答えようと試みる。
「あ、あの……。昔のまんまだよ。今でも、その、アナウンサーになりたいって
思ってる。でもね、すっごく採用試験が難しいのも理解しているし、なんたって
この容姿だもんね。背もそんなに高くないし、顔も……。なれるわけないのは
百も承知だけど、まだあきらめきれなくて。いつまでも夢見る少女みたいで
笑っちゃうでしょ? 」
おじいさんの話をきいたばかりで不謹慎かと思ったが、肩をすくめてクスッと
笑った。将来の夢のことを好きな人と見つめ合いながら話すのは、告白する
のに匹敵するくらい恥ずかしい。
「別におかしくないよ。笑ったりしないさ。是非その夢、かなえろよ。俺も応援
するから」
「あ、ありがとう」
いやいや、そんな応援までしてくれなくても。ますますいたたまれなくなる。
「じゃあ、進学先も、もう決めてる? 」
吉永君は少しも茶化すことなく真面目な顔をして優花の夢の話を受け止め
てくれた。進学先ももちろん決めている。あとは合格目指して突っ走るのみだ。
「うん。決めてる。A大学に入りたいんだ。あそこの放送部で経験を積めば
少しは仕事への近道になるかなって。それに家からも通える距離だし」
「そうか。よし、わかった」
わかったって、いったい何がわかったのだろう。ちなみに優花が目指して
いるA大学は、歴史のある女子大だ。男子である吉永君にとっては何の
役にも立たない情報のはずだが。
「なあ、ゆう。もしも、の話だけど。俺が帰って来なかったら……」
優花の心臓が、ドキッとひとつ大きく鳴って。そして止まった。
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