そばにいて

 

 

21.夕暮のベンチ 1

 

 

 

  まだ人の顔がはっきり区別できるくらいの明るさが残る、十月

 の夕刻だった。どう考えても、こんな早い時間にデートを終えて

 帰って来るとは思えないが、絵里の言ったことが事実だとすれば

 吉永君が帰宅する可能性はゼロではない。

  優花はマンションのロビー奥にある観葉植物の陰に立って彼を

 待っていた。部活帰りの中学生が賑やかにエントランスを通り抜け

 る。買い物を終えた家族連れも、大荷物を抱えて自宅へと帰って

 行く。でも、吉永君はまだ帰って来ない。もしかすると、もうすでに

 家にいるのかもしれない。それも、麻美と一緒に過ごしているのだ

 としたら。優花がここで待っている必要性は皆無だ。

  あと五分だけ。優花は心の中でそう決めて、祈るような気持ちで

 彼を待った。

  バスが到着するたびに帰って来る人の群れが、次々とエントランス

 に定期的になだれ込む。土曜日なので、中高生も私服の人が多く

 うっかり見過ごしてしまいそうになる。吉永君だけは、見逃すまいと

 葉と葉のすき間から、よく目を凝らして見た。

  その人波が去ってしばらく経ってから、宅配便の女性配達員に

 続いて、タータンチェックのワンピースに黒のタイツ姿の女の子が

 マンション内にすっと入り込んだのが見えた。

  麻美、だ。

 「マ……」

  マミ、と言いかけて咄嗟に口をつぐみ、一歩後ろに下がった。

  麻美は優花が植物の陰に身をひそめていることに気付かない

 ままエレベーターホールに向かって行った。思い詰めたような顔

 をして、手には小さな包みを持っているのが見えた。

  どうしたのだろう。足がガクガク震える、喉もカラカラだ。麻美が

 向かった先は吉永君の家だ。ということは。優花がここで待つこと

 事態が無意味であると悟る。絵里の直感も時には感度が鈍る事

 だってある。

  さあ、家に帰ろう。ここから立ち退かなくては、と思うものの一向に

 足が進まない。母も帰って来るかもしれない。妹だって通るかもしれ

 ないのだ。けれど身体が動かないばかりか、あの二人の仲睦まじい

 姿が瞼に浮かんでは消え、また浮かんでは消えを繰り返すばかりで

 一歩も動けないままだった。

  デートが終わって、何かを渡しに来たのだろうか。そして、今から

 彼の部屋でデートの続きなのかもしれない。彼のお母さんは頻繁に

 長野に行っていると言っていた。だとすれば、家族が誰もいない所に

 麻美は足を踏み入れたのだ。

  恋人同士の現実をいやというほど思い知った優花は、残された

 気力をふりしぼって、観葉植物の鉢の前に歩み出た。

  周りに人の気配がないのを確認して、エレベーターホールに向かい

 ボタンを押した。二基あるエレベーターの一つが、三階に停止する

 ことなくすっと降りてきた。誰も乗っていない空っぽの箱が優花の前で

 止まる。

  するといつの間に駈け込んで来たのだろう。三才くらいの男の子が

 優花を押しのけてエレベーターに飛び乗った。そして中からこっちを

 見て、ニッと笑う。優花の後方から子どもの母親らしき人が走って来て

 中にいる男の子の手を引いて外に出し、これ! とその子を叱った。

 「どうもすみません。あれほど言ってるのに、この子ったらちゃんと

 並べなくて。ごめんなさいね」

  母親に深々と頭を下げられた。

 「い、いえ、別に」

 「お姉さんに、ちゃんと謝りなさい」

 「やーだよっ! 」

  母親に捕まえられている腕から逃れようと、身体をくねくねさせながら

 あかんべをする。 

 「ほんとにこの子ったら。今日のおやつはなしですよ。ちゃんと謝り

 なさい」

 「やだやだ! えべれーたーにのるんだよう。ママのおこりんぼー! 」

 「えべれーたーじゃなくて、エレベーターです。ダメなものはダメっ! 」

  親子のバトルは続いているが、これくらい、いつでもあることだ。

 小学生のランドセル集団のあつかましさは、これどころの騒ぎではない。

  自分も昔はそうだったのだし、別に取り立ててその男の子を非難する

 つもりはなかった。

  すみません、いえいえ、と繰り返しているうちに、隣のエレベーターが降り

 てきて、中から出てきた人と目が合った。

  長いまつ毛に縁どられた黒目がちなその目の持ち主は、麻美しかいない。

 「優花っ! 」

 「ま、マミ……」

  優花は麻美の前に立ち止まり、親子を乗せたエレベーターが上がって

 行くのを、ぼんやりと視界の端に捉えていた。

 

 

 

 

 

 

 

クリックでの応援

よろしくお願いします

     ↓↓

 
にほんブログ村

 

目次 

 

 

 

             Copyright (C) since 2008 Mayuri Ohira, All rights reserved.