そばにいて
プロローグ 1
「優花、忘れ物はない? 」
「うん。ないない。じゃあ、行って来まーす」
優花はサイドが少しこすれた黒のローファーを履き、心配そうに
見送る母に笑顔を返す。そして元気よく玄関からマンションの廊下に
飛び出した。少し遅れて、パタンとドアが閉まる。
今日から二学期だ。
宿題も入れたし、お茶も持ったし。準備は完璧のはず……だった。
お気に入りの夏の制服の胸元のリボンをエレベーターホールの鏡で
確認する。
形よく結べた日には、何かいいことがありそうな気がするのだ。
今日は、まあまあの出来だなと、まだ眠そうな目をした自分自身に
無理やり微笑みかける。
「優花ちゃん、降りるけど? 」
「あっ、おばさん、おはようございます」
優花はくるりと振り向き、ぺこっと頭を下げた。隣に住んでる
おばさんだ。
片手にごみの大きな袋を持ち、もう片方の手で、閉まろうとする
エレベーターの扉を阻止するべく、開くのボタンをギュッと押し続けて
いる。ところが優花は、顔の前で手を振るだけで、一歩もそこから
動こうとしない。
「あの、わたしは階段で降りるので、いいです。おばさん、ありがとう」
「そうかい? それじゃあ、お先に」
おばさんは怪訝そうな顔をしながらもボタンから手を離し、優花を
ホールに残したまま、エレベーターの四角い箱ごと階下へ降りていった。
優花は毎朝登校の時、必ずエレベーター横の階段を使って下に
降りる。
彼女の住居は六階だから、階段を使うと少し時間がかかってしまう
のだが足腰のトレーニングにもなるしね、というのは家族や近所の人に
訊ねられた時の、建前的な言い訳でもある。
というのも、このマンションの三階には……。
そう。三階には、ある人が住んでいるから。
それは、同級生の吉永真澄君。優花の初恋の人だ。
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