第二十七話





「お民、大丈夫か?」


 その人は多実衣を抱きかかえるようにして支え、心配そうにのぞき込む。


「せ、先輩。なんでいるんですか、ここに……」


 多実衣は先輩に身体を預けながら力なくたずねる。幸い、不審な気配は泥棒


ではなかったようだ。けれど、これは夢でも見ているに違いないと自分に言い


聞かせていた。こんなタイミングで救世主のように先輩が現れるなど、現実に


はありえないからだ。


「俺がここにいたら悪いか」


 先輩の顔が多実衣の数センチ前にまで迫ってくる。それに合わせて心臓の拍動


も加速していくのがわかる。多実衣は慌てて目を閉じた。


「そんなことはないです。でもさっき電話を下さった時、帰って来るなんて一言も


言わなかったじゃないですか。それに。もうすぐ夢から覚めるんです。私は疲れ


て眠ってしまって、素敵な王子様が現れた瞬間、目覚める。どうせそんなオチ


が待っているだけなんですから」


 少しでも長い間夢を見ていたかった多実衣は、目をつぶったままそう言った。目


を開けたら最後、先輩の亡霊は跡形もなく消えてしまいそうな気がする。このま


ま先輩の亡霊と戯れていたかった。


「そうか、夢から覚めてしまうのか。ならば、奥の手を使おうかな」


 そう言って一瞬の静寂のあと、何かが多実衣の唇に重なった。


 ま、さ、か。


 昨夜知ったばかりのそのぬくもりは、次第に激しさを増していく。呼吸すらまま


ならなくなった多実衣は、やっとのこと亡霊を押しのけ、その腕から離れた。


「せんぱい……」


 目を見開いて亡霊を見た。そこにいたのはまぎれもなく生身の彼だった。


 今起こったことが現実そのものであると悟るや否や、多実衣の顔がかーっと


熱くなる。


「ただいま。おまえのことが心配になって、帰って来たんだよ。電話でそう言った


ろ? 聞いてなかったのか?」


 再び多実衣を抱きしめながら先輩がそんなことを言う。多実衣は彼の腕の中


で窮屈そうに首を横に振った。そんなの知らないと。


「返事もなく電話が切れてしまったからな。そうか、聞いてなかったのか……。


まあ、仕方ないさ。周子さんと何かトラぶったんだろ?」


「うん……」


「あの人は気ままなところがあるからな。俺も若いころはそんな周子さんを受け


入れられなくて、ずっと反抗していた。父には悪いと思ったが、この家を出るこ


とで周子さんと距離をおこうと考えた。それはそうと、いい匂いがするな。夕飯


出来てるのか?」


 多実衣の背中をなでながら、先輩が台所の方を見て言った。


「はい。周子さんがお客様を連れて帰って来ると聞いていたので、夕食の準備


をして待っていました」


「そうか。ちょうどよかった。俺、昼から何も食っていないんだ。食べてもいい


かな?」


「あ、はい。どうぞ、召し上がって下さい」


 多実衣は目の前がぱっと明るくなり、気分が上昇してくるのがわかった。日の


目を見ることなく密かに処理されようとしていた夕食が、にわかに脚光を浴び


る。


「ではまず、このフライパンと泡だて器を手から離してくれないかな?」


 自分の手にしている泥棒撃退グッズを再確認した多実衣は、大慌てでそれら


を元の位置に戻した。