第二十一話
多実衣は自分でも不思議でならなかったのだ。どうしてあんなにもそりが合わ
ない粗暴な男と、こんなにも簡単に結婚してしまったのだろう……と。
いくら相手が強引だったといっても、いつでも逃げ出せたはずだ。手を握ら
れ、車庫にあった豪華な内装の車に乗せられた時も、助手席に座った頃には
どこも拘束などされていない。じゃあ、これでさよなら、と捨て台詞を残し、車か
ら降りることも可能だった。
実家でも親に泣きついて先輩を追い払ってもらうことも出来たはずだ。父は剣
道有段者だ。今でも足腰は鍛えており、三十代、四十代の働き盛りにも負けた
ためしがないと豪語しているくらいだ。先輩の一人や二人、叩きだすことくらい
朝飯前だろうに。
役所でも引き返すことは十分にできた。その前に用紙を破ってしまえば少なく
とも今朝はまだ独身だったかもしれない。
なのに、何もできなかった。いや、そうではなくて、自分で何もしないことを選
択してしまったのだ。
田野原蒼大と再会したのは三年ぶりくらいだ。品食工での多実衣の同期と一
年上の先輩たちとは、退職者も含めて品食会と称して飲み会を時々開催して
いた。彼は毎回参加することはなく、たとえ参加していても、多実衣と特別会話
が多かったわけでもない。
つまり、結婚への伏線など何もなかったので、まさか先輩とこのようなことに
なるなんて、多実衣はもちろん、周囲の誰もが予想だにしていなかったと思わ
れる。
多実衣は、シャワールームの横にある洗面台で顔を洗い、髪をひとつに結
ぶ。とりあえず昨日実家からスポーツバッグに詰め込んで持って来た衣類を物
色し、無難なワンピースを選んで大急ぎで身支度を整えた。
「まあ、昨夜は、荷物の整理もあったでしょうし、今日だけは大目に見てさしあ
げますけれど。明日からは七時には朝食の準備が整うよう、お願いします」
「はい、わかりました」
「それと、まだあなたを田野原家の嫁と認めたわけではありませんから。あなた
もおわかりだと思いますが、蒼大さんはご自分の身を守るため、あなたを利用
しただけなのです。まさか本当に入籍までしてしまうとは、わたくしも想定外の
行動にびっくりしておりますが……。けれどあなたとは所詮形だけの結婚。昨
夜もここにあなたを送り届けて、すぐに別宅マンションに戻られたのでしょ?
ふふふ。新婚なのに一緒に暮らすことも叶わない。こんな偽りの結婚、すぐに
崩れてしまうのではないかしら。おほほほほほ……」
食事室に入るなり、夫人からの説教が延々と続く。
確かに先輩は、昨夜十一時頃に多実衣をここに送り届けて、すぐに正面玄関
から出て別宅に戻った。
が、しかし。
零時ちょうどに離れの離れのドアが開錠され、先輩が舞い戻って来たのだ。
それからこの騒動についてどういう了見なのかお互いの意思を確認し合い、
とにかく一度夫婦としてやっていこうということになり結論を見たのだが、そのあ
と、なぜか甘い空気になってしまい、彼のリードの元、きちんと初夜を迎えてし
まったのは、夫人も知りえない真実だった。
多実衣は昨夜のあれこれを思い出すたび、パチンと頬を叩き邪念を払いの
ける。決して何も悟られまいと、夫人の前で精一杯、真面目な良い嫁を演じ続
けた。
