第十七話
「もし、田野原家のご長男との結婚が前提ということなら、私がこちらにお伺い
することは絶対になかったと言えます」
多実衣はきっぱりと言い切った。
「あら、本当にそうかしら。心のどこかでは、田野原蒼大と結婚できるチャンス
かもしれない、と浮かれていらしたのでは。このお屋敷は次男の龍大が継ぐと
しても、他にも別荘やマンション、有価証券など、蒼大さん名義のものもたくさ
んあることですし。それよりも何よりも、身内でありながらこのようなことを申しま
すのは気が引けますが、容姿も申し分なく社会的地位も高い蒼大さんのような
お相手が、他にいらっしゃるとは思えません。ねえ、そうですわよね、行田さ
ん?」
「そんな……。私が先輩目当てでこのお話に乗ったと思われるなんて、ありえ
ません。私はただ純粋な気持ちでこちらに伺っただけです。天に誓って他意は
ありません」
「まあ、そんなにむきにならなくてもよろしくてよ。おほほほ」
田野原夫人の余裕綽々な態度にはらわたが煮え返る思いだった。このような
人を相手に何年も一緒に生活を共にしてきた佑美が気の毒で仕方がない。
もうこの家に戻る必要なんてないよと、佑美の背中を押してあげたい願望に
駆られる。
「お民、おまえの言い分はよくわかった。そして、周子さん。ご自分の妄想話を
決めつけて話すのは辞めて下さい、といつも言ってるじゃないですか。人には
いろいろ種類がある。行田のように、いつまでも純粋な気持ちで生きている人
間がいるのも事実だ。これだけは肝に銘じておいてください。世の中はあなた
が思うほど、俺たちの家族を羨ましがったり、褒め称えたりはしていませんか
ら。その逆だと思っておいた方がいい」
「まあ、親に向かってそんな……」
夫人は不服そうな表情を浮かべて、壁側に顔をそむけた。
「話を元に戻そう。行田がここに来たのはいいが、どうも周子さんの予想してい
た人物像とは違った、なのでもう必要ないと、無職になった彼女を追いだすつも
りのようですが。実際問題、佑美もいなくなったこの家をどうするおつもりです
か? あれほど掃除も行き届いていたこの家が、少し荒(すさ)んで来ているよう
に感じますが」
応接間をぐるりと見渡し、悪代官……改め田野原先輩が言った。多実衣のこ
とをかばってくれたことは評価に値する。多実衣は公正さが何より大切だと
常日頃から思っているのだ。
「あら、そうかしら。わたくし以外にはどなたもいないのですよ。汚れるはずない
いじゃないですか」
「でも、実際問題、いろいろな家事が滞っているはずです。どうです? この際、
行田にやってもらえばいいのではないですか? こいつはこう見えて、結構い
ろいろ細かいところに気の付くやつです。料理もできる。社員運動会の時に分
けてもらった握り飯は、最高にうまかった」
いやいや、あのおにぎりは分けたのではなく、勝手に奪われたのですが。こ
の口のうまい先輩が、目にもとまらぬ指さばきで、一瞬にして奪い取っていっ
たのですけど……。
おかげで、満腹にほど遠い最悪のコンディションで挑んだ男女混合二人三脚
では、先輩に引きずられるようにして最下位でゴールしたのは言うまでもない。
そして、その後何年も多実衣の失態が語り草になっているなどとは、早期に
転職したこの人は、何も知らないのだ。
