10.このまま眠っていて その4
「はい、何でしょうか」
カウンターのそばまで来ていた母親が立ち止まり、声のする方に振り向いて返事をする。
「お、おい、さわ、さわ、沢井さん、な、何を言ってるんだ。もういいだろ? うちのやつは息子を連れて家に帰るんだから。な? だからもう……」
「間宮さん、あなたは黙ってて。奥さん! 待ってください! お願いです、あたしの話をきいて下さい!」
うろたえる男性を一刀両断に説き伏せ、沢井さんが母親のところまで駆け寄って来た。
「あ、はい。何かございましたか?」
母親も彼女の豹変にびっくりしたのだろう。元々大きな目をそれ以上に見開き、沢井さんに引きとめる理由をたずねる。
「おい、何も話なんてないから。早くヒロトを連れて帰れよ。さ、早く!」
男性がそんな二人の間を割って入り、通せんぼをするように立ちふさがる。
「お願いです、奥さんと話したいんです。間宮さん、どいて下さい」
華奢(きゃしゃ)な沢井さんが目の前の大きな男性をいとも簡単に押しのける。男性はバランスを崩し、もう少しで倒れそうになっていた。
「あなた、ここは沢井さんのお話を聞きましょう。沢井さん、どうぞ、お話になってください」
母親の毅然とした態度とは裏腹に、男性の額からは異様なほど汗が噴き出していた。沢井さんはそんな男性をしり目に、母親ににじり寄る。
「あの、あたし、実は、実は……」
沢井さんが今にもすべてを吐露しようとしているのが伝わってくる。きっと洗いざらい全部話すのだろう。
美桃はあまりの恐ろしい光景に思わずヒロト君をぎゅっと抱きしめてしまった。幼い彼を守りたい、ただその一心だったと思う。
「間宮さんと……」
沢井さんがそこまで言いかけた時、ヒロト君が目を覚ましてしまったのだ。強く抱きしめてしまったのが災いしたのだろう。
「ん……。ママ、ママ? あれ、ママは?」
寝ぼけまなこのヒロト君がきょろきょろとあたりを見回している。
「ヒロト、ママはここよ」
母親を見つけたヒロト君は彼女に向かって大きく手を広げた。ところが途中でその手は別の方向に向きを変えるのだ。
「あ、パパ! パパだ。わーい。パパだ。どうしてパパがいるの? お仕事は?」
男性の姿を見つけたヒロト君が美桃の膝から飛び降り、猛スピードで走って行った。
「ひ、ヒロト!」
男性の声が完全に裏返っている。そしてまるで条件反射のように、駆け寄ったヒロト君の出した手を受け止めるようにして抱き上げていた。この親子は、いつもそうしているのだろう。
「あのね、パパ。お医者さんがね、明日から保育園に行っていいって言ってくれたよ。パパが看病してくれたおかげだねって、ママが言ってた。パパ、ありがと」
ヒロト君が男性の首の後ろまで手を回し、ぶら下がるように硬く抱き付いた。するとその様子を見ていた沢井さんが一歩前に踏み出した。
「奥さん、この際だからはっきり言わせていただきます!」
ついに沢井さんが家族崩壊への口火を切ってしまったのだ。ヒロト君が膝からいなくなった美桃は思わずその場に立ち上がった。ああ、もうだめだ。ひとつの家族が崩壊していくさまが、まるでスローモーションのようにゆっくりとまさに美桃の目の前で展開されようとしているのだ。
「奥さん、どうして子どもと二人だけで帰ろうとするんですか?」
え? 今何て言ったの? 美桃は耳を疑った。沢井さんの発した言葉があまりにもこれまでの流れから逸脱していたので、すぐには理解できなかったのだ。
「あ、はい、それは……」
母親も彼女の真意を問いただすような目をして、戸惑っている。
「ヒロト君は、ヒロト君は……。間宮さんと奥さんのお二人の子どもです。どうして一緒に帰らないんですか?」
「それはその……。主人がまだ仕事中ですから……」
「間宮さん!」
今度は男性に矛先が向く。
「病み上がりの子どもを、それもこんな寒空の下、歩いて家に帰すなんてひどすぎます」
「いや、バスだってあるだろうし……」
「バス? 奥さん、次のバスまであとどれくらい待つのですか?」
「え? あ、そうですね。三十分くらいかしら」
母親が腕時計を見て答える。
「三十分? それって、北風に当たりながら待つんですよね?」
「はい、まあ……。歩いた方が早いかもしれませんね」
このあたりのバスは本数も少ない。乗車時刻まで店で待ってもらうのが一番いいのだが、この空間でそれを提案する勇気が美桃にあるはずもなく。
「間宮さん、本当にこれでいいんですか?」
沢井さんは、青ざめている男性に強い態度で迫る。
「ん、もう、いい加減にしてください。ほら、また怪しい雲が出てきました。もう少ししたらきっと雪になりますよ。何もたもたしてるんですか。奥さんとヒロト君を家まで送るのが父親としての間宮さんの務めでしょ。さあ、早く。早く!」
ドアを開け、沢井さんが無理やり三人を外に押し出した。
母親がドアの外で深々と頭を下げた後、車の方に向かっていく。
ヒロト君を抱いている男性の顔は引きつったままで、何度も振り返り、沢井さんの様子をしきりに気にしているようだった。
「……あの人、行っちゃった。この世で一番憎いはずのあの女と、そして無邪気なあの子と一緒に。あたし、いったい、何やってるんだろ」
沢井さんは一人つぶやきながら、とぼとぼと奥の席に戻って行った。
「どうぞ」
「えっ?」
「よろしかったら、温かいほうを飲んでくださいね」
美桃は新たにいれなおした紅茶を持って行き、冷めたポットと取り替えた。
「あ、ありがとう。でもさ……。これって、料金は倍になるんだよね?」
沢井さんはためらいながらも、言いにくいことを聞いてくる。正直な人なんだと思った。
「いいえ、そんなことはありません。どうぞご心配なく。温かい紅茶を飲んでくださいね」
こんなことを続けていては、もちろん商売としては成り立たないのも承知だ。けれどたとえどんな事情であれ、彼女はこの店にやって来たのだ。美桃が今出来る最善の方法は、紅茶をいれることだけだった。
「ねえねえ、お姉さん」
「はい、何でしょうか」
カウンターに戻りかけた美桃を沢井さんがすがるような目をして引き止めた。
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