レンガの家の、赤い屋根の煙突の上で、クオンはヴァイオリンを奏でていた。
そこは、小さな頃から一番のお気に入りの場所だった。
屋根の上に登るなんてあぶないって、よくお父さんに叱られたっけ。他にも、色々悪いことをして困らせちゃったなぁ。
……もっと、言うこと聞いて、良い子にしていればよかった。でも、今日くらいはここでヴァイオリン弾くのを許してくれるよね。だって特別な日だもん。
遠くから、皆がやって来るのが見えた。クオンは演奏を中断して、叫んだ。
「ティル・ナ・ノーグへ、妖精さんの種を移転させる魔法陣を描く場所を決めるのに、気質とか、色々調べるんでしょう? 好きなようにやっていいよ」
「すまぬのう、お嬢ちゃん」
マホガニーの斜め下で、セツナもうなずいた。
クオンはまた、演奏を再開した。
トランクについて詳しいシープが積極的に案内したおかげで、セツナたちの調査は、意外と簡単に終わった。調査の結果、このトランクの中だったら、ティル・ナ・ノーグへの転送魔術が使えるということだった。
魔法陣を描くのに一番都合がいい場所は、クオンたちの家がある野原。
セツナとマホガニーは、浄化したあとに何種類かの薬草で色を付けた砂で、野原に大きくて精密な魔法陣を描き始めた。まくときに呪文を唱えて石化させるので、風が吹いても困ることはない。
案内をする必要がなくなると、シープは手のひらに乗るくらいのサイズになった。そして、屋根に登ってクオンの隣に来た。小さくなったのは屋根が抜けると困るからだ。シープは耳をひくひくと震わせて、クオンのヴァイオリンの音色を聞いた。
真上にあった太陽が沈みかけて、空が茜色になった頃、セツナたちの作業の手が止まった。
クオンは、左肩と鎖骨のあいだからヴァイオリンをおろす。
「魔法陣、出来たの?」
「完成じゃよ」
マホガニーが教えると、クオンはヴァイオリンと弓をケースにしまって、シープと一緒に窓から二階の部屋の中に戻った。階段を駆け下りて、外に出る。
セツナに駆け寄って、クオンはもう一度確かめた。
「完成したんだね」
セツナはうなずいた。
マホガニーはシープを見て、それから眉毛を八の時にさせてクオンに尋ねた。
「それで、本当によいのかのう?」
「うん。いいよ。大切なのは、場所じゃなくて思い出だから」
「うむむ。そっちもそうなのじゃが、……本人に話はしたのかのう?」
「今からする」
シープは何があるのだろうと思って、自分を抱いているクオンを見上げた。クオンは、今までシープでも見たことがなかったくらい神妙な顔をしていた。
「あのね、シープ。今から、セツナお兄ちゃんたちのお友達の妖精さんを、ティル・ナ・ノーグへ転送するでしょう? シープも一緒に行くんだよ」
「一緒に?」
シープは、何を言われたのか少しのあいだ理解できなかった。クオンは、小さなシープを抱き締める。
「地獄界では、空気が悪いから精霊や妖精は長生きできないでしょう? だから、帰れる方法があるんだから、シープはティル・ナ・ノーグへ帰ったほうがいい」
「そんな。どうして急にそんなことをおっしゃるんですか。クオン様はシープが嫌いになったのですか?」
顔を見たら、きっと自分が泣きだしてしまうから、クオンは抱き締めたまま言った。
「大好きだからだよ。誰よりも大好きだから、シープにだけは長生きして欲しいんだ。幸せになってもらいたいんだ」
「わたくしの幸せは、クオン様の成長を見守ることです。早死にしてもいいから、一緒にいられるかぎり、一緒にいることです」
クオンはまつげをそっと伏せた。
「そう言うと思っていた。前は、ボクもそうだったよ。一緒にいるだけで幸せだった。でもね、今は違うんだ。今のボクがシープに望むのは、会えなくなってもいいから元気でいてもらいたいっていうこと。ボクの大切な人たちは、みんな死んじゃった。お父さんも、ガイランお兄ちゃんも、グレイお兄ちゃんも、シルバーお兄ちゃんも。みんな、死んじゃった。だからシープにだけは長生きして欲しい。妖精の寿命は長いんだよね? きっと、今から帰れば、ボクより長生きできるよ?」
「イヤです。イヤです」
シープは子どものように、激しく頭を横に振った。クオンはその背中をなでる。
「ごめんね。ボクの最後のわがまま」
クオンは、シープが逃げられないように抱き締めて、眠りへ誘う呪文を唱え始めた。それは、いつか、ガイランがクオンに使ったものと同じだった。
シープは夢の妖精。夢の妖精を人間が眠らせることは不可能だと言われている。でも、今のクオンは久遠の魔導書に認められた魔導師だ。
朝見ず
詞に眠れ
胸に沈み
さあ
……シープは眠りについた。
クオンは名残惜しむように、一度だけぎゅうっと抱き締めて、魔法陣の方へ向かった。 中央に置いてある種の横にシープを置いた。
最後にシープの顔をよく見ておこうと思ったのに、視界がうるんでよく見えない。泣きだしてしまう前に、クオンはセツナとマホガニーのもとに戻ってきた。
マホガニーがもごもごしていると、セツナがかわりに言った。
「種のクラムだけだったら、このトランクも魔術に耐えられただろうが、魔力が強いあのひつじも送るとなると、間違いなく壊れるぞ。くどいようだが、本当にいいんだな?」
クオンは、大げさなくらい頭を力強く縦に振った。
「荷造りはしたか? 持っていきたいものがあるのなら、今のうちだぞ」
クオンは家の中に駆け戻った。少しのあいだ、クオンの部屋らしい場所から、物をかき回す音が響いていたけれど、すぐに戻ってきた。背中にヴァイオリンケースを背負っている。必要なものは全部、その中に入れたのだろう。
再び自分の前に戻ってきたクオンに、セツナは言った。
「マホガニーの魔術が始まると、トランクの中は不安定になり、トランクの消滅に巻き込まれる危険性が出てくる。私たちは先に砂漠に戻るぞ」
クオンはこくりと頭を縦に振った。
セツナもマホガニーも、少し困ったようにクオンを見ていた。
マホガニーは野原に残り、セツナは出口に向かって歩きだした。
クオンは、セツナを追い越して走る。
森の中を走っていると、息が荒くなった。息と一緒に声が口からもれる。
ここにいる植物たちもきっと、トランクと一緒の運命をたどることになるのだろう。クオンは心の中で謝った。
止まらない涙が、横に流れていく。
クオンは、色々なことを思い出していた。ここで暮らして幸せだったときのこと。地獄界に一人で放り出されてから、今日までのこと。思い出せるかぎりの思い出を、思い出した。
出口の宝箱が見えた。
クオンは思った。
ボクはずっと、宝物のように守られていたんだ。だから、世界に出てからは何もかもがつらくて、心ではいつも泣いてばかりだったんだ。
――強くなろう。もっと、もっと強くなろう。いつか本当に、久遠の魔導書に見合うだけの人間になるために。
そして、クオンはトランクのふたを開けた。