レンガの家の、赤い屋根の煙突の上で、クオンはヴァイオリンを奏でていた。

 そこは、小さな頃から一番のお気に入りの場所だった。

 屋根の上に登るなんてあぶないって、よくお父さんに叱られたっけ。他にも、色々悪いことをして困らせちゃったなぁ。

 ……もっと、言うこと聞いて、良い子にしていればよかった。でも、今日くらいはここでヴァイオリン弾くのを許してくれるよね。だって特別な日だもん。

 遠くから、皆がやって来るのが見えた。クオンは演奏を中断して、叫んだ。

「ティル・ナ・ノーグへ、妖精さんの種を移転させる魔法陣を描く場所を決めるのに、気質とか、色々調べるんでしょう? 好きなようにやっていいよ」

「すまぬのう、お嬢ちゃん」

 マホガニーの斜め下で、セツナもうなずいた。

 クオンはまた、演奏を再開した。

 トランクについて詳しいシープが積極的に案内したおかげで、セツナたちの調査は、意外と簡単に終わった。調査の結果、このトランクの中だったら、ティル・ナ・ノーグへの転送魔術が使えるということだった。

 魔法陣を描くのに一番都合がいい場所は、クオンたちの家がある野原。

 セツナとマホガニーは、浄化したあとに何種類かの薬草で色を付けた砂で、野原に大きくて精密な魔法陣を描き始めた。まくときに呪文を唱えて石化させるので、風が吹いても困ることはない。

 案内をする必要がなくなると、シープは手のひらに乗るくらいのサイズになった。そして、屋根に登ってクオンの隣に来た。小さくなったのは屋根が抜けると困るからだ。シープは耳をひくひくと震わせて、クオンのヴァイオリンの音色を聞いた。

 真上にあった太陽が沈みかけて、空が茜色になった頃、セツナたちの作業の手が止まった。

 クオンは、左肩と鎖骨のあいだからヴァイオリンをおろす。

「魔法陣、出来たの?」

「完成じゃよ」

 マホガニーが教えると、クオンはヴァイオリンと弓をケースにしまって、シープと一緒に窓から二階の部屋の中に戻った。階段を駆け下りて、外に出る。

 セツナに駆け寄って、クオンはもう一度確かめた。

「完成したんだね」

 セツナはうなずいた。

 マホガニーはシープを見て、それから眉毛を八の時にさせてクオンに尋ねた。

「それで、本当によいのかのう?」

「うん。いいよ。大切なのは、場所じゃなくて思い出だから」

「うむむ。そっちもそうなのじゃが、……本人に話はしたのかのう?」

「今からする」

 シープは何があるのだろうと思って、自分を抱いているクオンを見上げた。クオンは、今までシープでも見たことがなかったくらい神妙な顔をしていた。

「あのね、シープ。今から、セツナお兄ちゃんたちのお友達の妖精さんを、ティル・ナ・ノーグへ転送するでしょう? シープも一緒に行くんだよ」

「一緒に?」

 シープは、何を言われたのか少しのあいだ理解できなかった。クオンは、小さなシープを抱き締める。

「地獄界では、空気が悪いから精霊や妖精は長生きできないでしょう? だから、帰れる方法があるんだから、シープはティル・ナ・ノーグへ帰ったほうがいい」

「そんな。どうして急にそんなことをおっしゃるんですか。クオン様はシープが嫌いになったのですか?」

 顔を見たら、きっと自分が泣きだしてしまうから、クオンは抱き締めたまま言った。

「大好きだからだよ。誰よりも大好きだから、シープにだけは長生きして欲しいんだ。幸せになってもらいたいんだ」

「わたくしの幸せは、クオン様の成長を見守ることです。早死にしてもいいから、一緒にいられるかぎり、一緒にいることです」

 クオンはまつげをそっと伏せた。

「そう言うと思っていた。前は、ボクもそうだったよ。一緒にいるだけで幸せだった。でもね、今は違うんだ。今のボクがシープに望むのは、会えなくなってもいいから元気でいてもらいたいっていうこと。ボクの大切な人たちは、みんな死んじゃった。お父さんも、ガイランお兄ちゃんも、グレイお兄ちゃんも、シルバーお兄ちゃんも。みんな、死んじゃった。だからシープにだけは長生きして欲しい。妖精の寿命は長いんだよね? きっと、今から帰れば、ボクより長生きできるよ?」

「イヤです。イヤです」

 シープは子どものように、激しく頭を横に振った。クオンはその背中をなでる。

「ごめんね。ボクの最後のわがまま」

 クオンは、シープが逃げられないように抱き締めて、眠りへ誘う呪文を唱え始めた。それは、いつか、ガイランがクオンに使ったものと同じだった。

 シープは夢の妖精。夢の妖精を人間が眠らせることは不可能だと言われている。でも、今のクオンは久遠の魔導書に認められた魔導師だ。

 朝見ず

 詞に眠れ

 胸に沈み

 さあ

 ……シープは眠りについた。

 クオンは名残惜しむように、一度だけぎゅうっと抱き締めて、魔法陣の方へ向かった。 中央に置いてある種の横にシープを置いた。

 最後にシープの顔をよく見ておこうと思ったのに、視界がうるんでよく見えない。泣きだしてしまう前に、クオンはセツナとマホガニーのもとに戻ってきた。

 マホガニーがもごもごしていると、セツナがかわりに言った。

「種のクラムだけだったら、このトランクも魔術に耐えられただろうが、魔力が強いあのひつじも送るとなると、間違いなく壊れるぞ。くどいようだが、本当にいいんだな?」

 クオンは、大げさなくらい頭を力強く縦に振った。

「荷造りはしたか? 持っていきたいものがあるのなら、今のうちだぞ」

 クオンは家の中に駆け戻った。少しのあいだ、クオンの部屋らしい場所から、物をかき回す音が響いていたけれど、すぐに戻ってきた。背中にヴァイオリンケースを背負っている。必要なものは全部、その中に入れたのだろう。

 再び自分の前に戻ってきたクオンに、セツナは言った。

「マホガニーの魔術が始まると、トランクの中は不安定になり、トランクの消滅に巻き込まれる危険性が出てくる。私たちは先に砂漠に戻るぞ」

 クオンはこくりと頭を縦に振った。

 セツナもマホガニーも、少し困ったようにクオンを見ていた。

 マホガニーは野原に残り、セツナは出口に向かって歩きだした。

 クオンは、セツナを追い越して走る。

 森の中を走っていると、息が荒くなった。息と一緒に声が口からもれる。

 ここにいる植物たちもきっと、トランクと一緒の運命をたどることになるのだろう。クオンは心の中で謝った。

 止まらない涙が、横に流れていく。

 クオンは、色々なことを思い出していた。ここで暮らして幸せだったときのこと。地獄界に一人で放り出されてから、今日までのこと。思い出せるかぎりの思い出を、思い出した。

 出口の宝箱が見えた。

 クオンは思った。

 ボクはずっと、宝物のように守られていたんだ。だから、世界に出てからは何もかもがつらくて、心ではいつも泣いてばかりだったんだ。

 ――強くなろう。もっと、もっと強くなろう。いつか本当に、久遠の魔導書に見合うだけの人間になるために。

 そして、クオンはトランクのふたを開けた。

 アリキーノが滅び、城があった島が三つに割れた。

 地獄界に瞬く間に広まったその訃報は、悪魔にも魔物にも大きな衝撃を与えた。アリキーノが滅びたことだけでも大問題なのに、さらに困ったのは島のならびが大幅に変わってしまったことだ。城があった島が分裂したおかげで、その周辺の島々の磁力の均衡が崩れて、近くにあったアリキアの町や他のたくさんの島の位置がめまぐるしく変動してしまったのだ。

 どうしてこんなことになってしまったのか、真実を知る者は少ない。アリキーノの城に仕えていた者たちは、よっぽど恐ろしいものを見たのか、誰が何を尋ねてもそろいもそろって何も言わず、当分のあいだは誰も口を開きそうになかった。

 そして、その事件の当事者たちはといえば――。

 クオンたちは、リント砂漠に立っていた。

 今日も砂嵐が吹き荒んでいる。

 島のならびが変わってしまったおかげで、リント砂漠の島がどこにあるのか、突き止めるのに少し時間がかかってしまったけれど、やっと、辿り着けた。

 クオンの背中には、ヴァイオリンケースが背負われていた。クオンがアリキーノに捕まっている間、ヴァイオリンケースはマホガニーが自分のページとページの間にしまって、大切にあずかっていてくれていた。アリキーノとの戦いでマホガニーはたくさん傷を負った。でも、ヴァイオリンケースは無傷だった。

 ボクはここから、このヴァイオリンケースだけを持って地獄界に飛び出したんだ。

 トランクは、この砂漠のどこかにあるはず。

「どうやって探すつもりだ」

 セツナに尋ねられて、クオンはにっこりと笑った。

「もちろんダウジングで」

 でも、その必要はなかった。

 クオンが、新しい服のポケットからダウジングの道具を取り出そうとしたその時、砂漠の彼方から見覚えがある長方形の物が転がってきた。

 思わずクオンは息を呑んだ。

「ボクのトランク!」

 ガイランお兄ちゃんと探したときは、あんなに探しても見つからなかったのに……。

 トランクは、まるで意志を持っているように真っすぐ、クオンのもとへ転がって来た。 長いあいだの放浪で、トランクの表面は傷つき汚れていた。皮のバンドは、二本ともどこかへ行ってしまっている。

「トランクの中、大丈夫でしょうか?」

 不安そうに、自分の肩の上でシープが呟くのを聞きながら、クオンは、あせってトランクの鍵を開けた。

「中に入るよ、シープ」

 クオンは勢いよくトランクのふたを開くと、中へ身体を滑り込ませた。トランクは、クオンとシープを吸い込むと、ひとりでにふたが閉まって鍵がかかった。

 あまりに鮮やかにクオンたちの姿が消えたので、セツナとマホガニーは驚いて顔を見合わせた。

 また転がりだしそうになったトランクをセツナが慌てておさえると、横からマホガニーが言った。

「のう、セツナ。側にいるだけで、このトランクがとても大きな光の力で出来ているのはわかるのじゃが、この中って、どうなっておるのかのう?」

「あの娘は、父親と一緒に旅をしているあいだ、ずっとこの中に入っていたと言っていたぞ。この中で育ったようなことも言っていたな」

 セツナとマホガニーは、沈黙した。

 トランクの中で育つ?

 娘をトランクの中で育てた父親や、トランクに加護を与えた母親は、本当にどんな人間や精霊だったのだろう。

 セツナとマホガニーは強い光の力を感じ、そのトランクの不思議な力に心を奪われた。 ふいに、トランクのふたが開いて、普通のひつじの大きさになったシープの上半身が出てきた。

「すみません。家に帰れた喜びで、わたくしも、ついついマホガニー様方のことを忘れるところでした。お二人も入ってきて下さいな」

「私たちが入っても大丈夫なほど、その中は広いのか?」

「はい。見かけよりもずっと広いですよ。クオン様のヴァイオリンケースの小物入れもそうでしょう?」

「なるほど。あれと同じ原理なのじゃな」

 マホガニーが納得していると、シープは、入ってきてくださいね、と念を押して顔を引っ込めた。表面から見たかぎりではトランクの中には闇が広がっている。普通ではない。 鍵が閉まってしまわないように、トランクのふたを押さえていたセツナは言った。

「行くぞ、マホガニー」

 トランクの中に帰って来れた嬉しさで、クオンははしゃいでいた。トランクの外見と違い、中身は何も変わっていなかった。

 宝箱の形をした出口も、トランクいっぱいに広がる緑の小さな森も、流れる小川も。小さな森の真ん中は野原になっていて、そこには白い柵で囲まれた、二階建ての赤い屋根のレンガの家が建っていた。柵の内側の小さな庭には小さな花壇があって、珍しい薬草が栽培されていた。

 クオンは声をたてて笑った。

「帰って来た。帰って来たんだ。ただいま。みんな、ただいま~っ!」

 クオンは森の木々や草花に向かって叫びながら、赤い屋根のレンガの家へ真っすぐに向かった。

 セツナお兄ちゃんたちのことは、シープが呼んできてくれるって言っていたから、気にしなくていいや。それより、早く家に帰らなくちゃ。早くあの場所でヴァイオリンを弾きたい。

 セツナとマホガニーは、トランクの中の風景に絶句した。

 そこは、まるで小さな楽園だった。

 ゆっくりと森の木々のあいだを飛びながら、マホガニーはシープに言う。

「ここは、とてもきれいな所じゃのう、ひつじさんや」

「シャンティー様が、クオン様のために残された場所です。ここの太陽は、シャンティー様が作られたものの中でも、傑作中の傑作なのですよ。すごいですよね」

 シープは自分のことをほめてもらえたみたいに嬉しそうだった。

 確かにきれいだと、セツナも思う。

「でも、ニセモノの自然だ。ここは光の力が強すぎる」

 シープはセツナを睨みつけた。くってかかろうとしたそのとき、家のほうからヴァイオリンの音色が聞こえた。

 クオンのヴァイオリンだ。

 シープに案内されて、セツナたちは家へと歩いた。

 アリキーノの肉体が消滅した瞬間、アリキーノがいた辺りから、たくさんの青い光の球が現われた。それは、光が来た方向に群れを成して登っていった。

「魂。……アリキーノの消滅で、アリキーノの体内に閉じこめられていた魂が、呪縛から解き放たれたんですね。クオン様。きっと、あのなかには、ナガレ様や皆様もいらっしゃいますよ」

 クオンはシープの上に飛びついて喜んだ。

 セツナとマホガニーは、空の上で魂を見送っている。当分は降りて来そうになかった。「ガイランお兄ちゃんっ! あのね、お父さんたち神様のところに行けたんだって」

 クオンはまだ目を閉じているガイランの元に走った。シープもついて来る。

 起きてもらおうと、ガイランの身体を揺さぶろうとして、クオンはその感触に手をひっこめた。

 ガイランの身体には、まったく弾力がなくて、クオンが手を当てたところにくぼみが出来ていた。

「ガイランお兄ちゃん。ガイランお兄ちゃん。どうしよう、シープ」

 何かを察して、シープは唇をかんで下を向いていた。

 クオンも、それがわかってしまう。

 ガイランが、地獄界で人間の姿をして生活していられたのは、アリキーノとの契約があったからだ。主人であるアリキーノが消えたら、その契約も終わる。

「消えちゃう? ガイランお兄ちゃん、消えちゃうの? やだ。……そんなのやだよ。起きて。起きてよ」

 クオンの声が届いたのか、ガイランは目を開いた。

 震える手で、クオンの唇に触れる。

 この子の笑顔が好きなのに、泣かせてばかりだったなぁ。やっぱり、親代わりは失格かも……。

 ガイランは、擦れた声で言った。

「クオン、僕は還るだけ、だから……」

 クオンは、シープを自分の前に押し出した。

 シープは、ボロボロと涙をこぼしながら叫んだ。

「ガイラン様。ずっと、ずっと、お慕いしておりました。ガイラン様が、他の方に想いを寄せていたのは知っております。でも、それでも、ずっとずっと好きでした」

 それは、ガイランが人間だったあいだに伝えられなかった想いだ。

 クオンが知らないことも、シープは知っている。

 クオンは、それがうらやましくて、切なかった。きっと、シープのほうがもっと切ないんだろうと思うと、もっともっと苦しくなる。

 ガイランの身体がいよいよ崩れ始める。ゆっくりと、だんだん早く……。

 シープは、ガイランが消えるまでしゃべり続けて、クオンはそれを見守った。

「地獄界は、とても恐いところですけど、ガイラン様に再会できて、こうして、ずっと、言えなかったことを言えただけで、シープは、地獄界に落ちて幸せです。ガイラン様、聞こえていますか? 聞こえていますか?」

 シープが呼びかけるその場所には、戦いでほころびた服しか残されていなかった。

 灰色に淀んだ魂が、ふらふらと飛ぼうとしている。

 ガイランの魂だ。

 あぶなっかしくて、今にも落ちそうだ。

 それを見たセツナが、魂がいる場所まで来て、触った。

 セツナは、短い会話のあと、魂を離した。

 大きな地震が始まった。

 マホガニーが、ばっさばっさと降りてくる。

「いかんっ! さっきの光は、この島の磁場にも影響を及ぼしてしまっていたようじゃ。島が分裂しようとしている。早いところ逃げるぞいっ!」

 セツナに急かされて、クオンとシープはマホガニーの上に乗った。

 クオンは、アリキーノの城があった島から逃げる途中、セツナに尋ねた。

「最後にガイランお兄ちゃんと何を話したの?」

「私は、魂を浄化できる炎が使える。それを浴びれば、悪魔と契約してしまったお前でも神のもとに迷わず行けるようになるが、どうするかと言ったんだ。……あの男は私の申し出を断った。人間に焼かれ、悪魔に焼かれ、天使にまで焼かれたくはないと言ってな。まぁ、あの男もいつかは還れるだろう。神は全てを受け入れて下さるから」

 そのあとに、セツナはぶつぶつと、私は天使ではないのにと言った。

 クオンは思う。

 ガイランお兄ちゃん、いつかは神様のところへ行けるかな?

 それは、永遠に解けない謎だ。

 アリキーノは強かった。

 セツナもマホガニーも、もう、体中傷だらけだった。

 何しろアリキーノもセツナも炎使いなので、お互いの魔法はまったく効かない。

 セツナは、初めのうちはマホガニーのためにチャンスを作ることに撤していた。

 でもその肝心のマホガニーが、五十年前のひずみのせいだかなんだかで、すっかり役立たずと化していた。

 悪魔のアリキーノには、天国界の天使から力を借りる魔法が一番効果があるのだけど、マホガニーはまずそれをなくしていた。さらに、氷や水系統の大技の魔法も、落としたままだと白状した。

 そんなわけで結局は、コロシアムで磨きがかかったセツナの格闘技と、マホガニーの氷や水の中技で戦うことになったのだ。

 アリキーノと身体が離れたときに、セツナはちらりと下を見た。

 いつの間にかシープが消えていて、ひとりクオンが地面に文字や図形を描いて何かやっている。

 少しのあいだ不安そうに首を傾げたあと、クオンは満足気にうなずいた。

 再びセツナがアリキーノに向かおうとした瞬間、矢のような光が天から降りてきた。

 セツナとアリキーノは、間を取り直した。

 マホガニーは叫ぶ。

「あの光は……」

 なんとか、完成した。

 魔力は、呪文を考えているあいだにかなり回復した。

 成功するかどうかはわからない。

 失敗したときのために、クオンは初めにシープではなく自分にかけることにした。

 息を大きく吸って、唱え始める。ちゃんと回文になっているはずだ。

 来し春秋冬夏

 千億知る詩

 永遠の輪と印

 久遠刹那

 勇気あるは四季

 空から、一条の光が降りてくる。

 発動はしたけれど、成功か失敗かはわからない。

 魔力が回復するかどうかは自分が受けてみるしか確かめる方法がない。失敗の仕方によっては受けてみたら大怪我をするということもありうる。

 クオンは目をつむって、光をその身に受けた。マヒしていた右手の中指が動くようになる。

 力が、身体のなかからみなぎってくる。魔力が回復するのが自分でもわかる。

 でも、光が与えてくれる力は強すぎて、クオンは意識が飛びそうになっていた。

 閉じたまぶたが、強い光のせいで真っ赤に見えた。

 クオンは、はっきりと見た。

 久遠の魔導書の表紙の、ナガレの魔導書の文字が、文字の初めの部分から火花を散らして削られ、そこに自分の筆跡でクオンの魔導書と記されるのを。

 そうか、認めてもらえたんだ。

 クオンは、自分の魔力の限界が、すごい勢いで増えていくのを感じた。

「クオン様?」

 呼ばれて振り返るとシープが目覚めていた。ガイランの炎も、なぜか消えている。

 シープは、いつもクオンがベッドにしているくらいの大きさに戻っていて、毛はふさふさだった。あの光は、少し離れてあびるくらいでちょうど良かったのかもしれない。

「シープ。ボクね、たった今、久遠の魔導書に認められたんだよ」

「あの光は、天使の、いいやそれよりももっと強い。神の光じゃ」

 天の上のマホガニーはそう叫んだ。

 クオンが魔力回復の魔法のつもりで作った魔法は、それどころではなくて、混沌とした宇宙の純粋な光の力を取り出す魔法だったのだ。

 久遠の魔導書に認められる前のクオンの魔力では、自分や周りの者の魔力を回復したり悪魔の炎を消すくらいの効果しか引き出せなかったけれど、使う者の魔力の許容量の大きさと、光をあびる対象の性質によっては違う効果も引き出せる。

 例えば、対象が魔の属性であるアリキーノだったら――。

 光を見たとたん、アリキーノから余裕が消えた。

 クオンを眼中に入れていなかったことを後悔した。

 こうなったら、久遠の魔導書のことなんて、とやかく言っている場合じゃない。今からでも早く殺さなくてはいけない。

 アリキーノは、セツナとマホガニーに背を向けて、一直線にクオンのもとに行こうとする。それを、セツナが阻んだ。

 アリキーノにしがみつきながら、セツナは叫んだ。

「娘、今の魔法をアリキーノに当てろ」

 クオンが呪文を唱え始めると同時に、セツナとマホガニーはそれぞれ、クオンが知らない言葉で何か呪文を唱え始めた。

 どちらも、クオンの呪文よりも複雑に聞こえたけれど、意味は単純だった。

 ただある者よ。三ある力を一に統べよ。

 セツナとマホガニーの言葉は、途中まではまったく違った。でも、最後だけは声が重なった。その文句は、久遠の魔導書を意味する単語の部分だった。

 全ての魔導書の力がクオンの元に集まる。

 アリキーノは、途中でセツナを振り払って、クオンの元へ落ちるような勢いで向かっていた。

「あと少し」

 間に合うことを確信して口が自然と笑みを作ったそのとき、クオンの呪文はあっけなく終わった。

 アリキーノにさっきの百倍はあるだろうという、光の滝が落ちてきた。

 最後の瞬間、アリキーノはやっと自分のほうを見たクオンの表情に驚いた。

 クオンは、目を丸くしてぽかんとしていた。ついでに側にいたひつじも、同じような顔をしていた。

 クオンは、自分が放った呪文で、アリキーノが消滅していくことに驚いていた。

「あたしが、あたしが消えるなんて、ありえないわ。嘘よ、こんなの! あたしは魔王親衛隊、炎とバラのアリキーノなのよ! 魔王様に仕える大悪魔なのよ! あんな虫けらにあたしが滅ぼされるなんて……」

 光の最後の束がアリキーノに触れたとき、アリキーノは消滅した。

 クオンは、魔力の使い過ぎで頭が痛くなった。

 クオンの横では、シープも一生懸命唱え続けている。

 シープの黒い毛は、魔力の固まりで出来ていた。魔法を使うたびに少しずつシープの毛は減り、痩せて、ちぢんでいく。

 さっきまでのたうち回っていたガイランは、気絶して動かなくなっていた。相変わらず真っ黒な炎がガイランにまとわりついていているけれど、ガイランには火傷一つない。きっとアリキーノにはガイランを捨てる気がないのだろう。それでも、さっきまでの苦しみようを見てしまったら、クオンもシープも雨を降らせ続けることをやめられなくなっていた。

 雨のせいで全身がずぶぬれだ。でも、ずっと魔法を使っているおかげで、身体だけは温かかった。

 気づくと、クオンの横にいたシープは、銀貨と同じくらいの大きさになってしまっていた。クオンは、思わず呪文を中断して、握り潰してしまわないように、そっとシープを抱き締める。

「シープ! シープはもう休んでよ! シープ、死んじゃう!」

 抱き締めたとたんめまいがして、クオンもそのまま倒れた。

 シープは泣いていた。

「わたくし、役立たずですね。役立たずですね」

 いつかも、そんなことを言って、シープは泣いていた。

 そして、そのときもクオンはこんな風にシープを抱き締めていたような気がした。

 そうだ、あれは――。

 クオンは、ガイランのことを全て思い出した。

 最後の雨の魔法の効力が切れて、少し暗くなり始めた空が見えるようになる。

 クオンの口から、なつかしい言葉が自然とこぼれた。

「……ガイランお兄ちゃん」

「クオン様?」

「昔、ボク、ガイランさんのことを、そう呼んでいたよね」

 物心がついたときから、父親がいないときに側にいてくれる人がいた。その人は、色々な研究をすることに一生懸命な人で、クオンはその人のことが好きだったのだ。その好きは、父親に対するものと半分同じで、半分違った。

 その人に少しでも近づきたくて、クオンはその人のことを色々真似した。自分のことをボクと言ってしまうのも、そのせいだ。

 でも、ある日、その人は広場で木の柱に縛り付けられて焼き殺されていた。六歳のクオンにとって、それは、あまりにもむごい光景だった。クオンは自分を守るために、無意識のうちにその人に対する気持ちと記憶を、全て心の奥に封じ込めたのだ。

 ――ボクは、全部忘れていたのに、ガイランお兄ちゃんのことをまた好きになった。きっと、何回生まれ変わっても、好きになるのはガイランお兄ちゃんなんだ。

「シープ……。シープも、ガイランお兄ちゃんのこと好きだよね」

 シープはこのときになって、やっとクオンの気持ちに気づいた。それでも、クオンの手のひらのなかでうなずく。

「はい。愛しております」

 クオンは、切なかった。

 愛は恋よりもずっと深いものだ。クオンは、自分がなんて子どもなんだろうと思った。 クオンが忘れていたあいだも、シープはずっとガイランのことが好きだったのだ。

「……シープにはかなわないかなぁ。ねぇ、シープ?」

 返事がない。

 そっと、手のひらを開いてみると、シープは倒れていた。

 消耗しきったシープには、地獄界の空気は猛毒のようなものだった。

「シープ。シープっ!」

 目を閉じれば、久遠の魔導書がある。でも、応えてくれない魔導書に用はない。

 クオンは、自分の力だけでできることを必死で考えた。

 治癒の魔法は肉体にしか効果がないからダメだ。解毒の魔法も違うような気がする。

 そもそも、魔力が尽きてしまっている。もう呪文を唱えても魔法は発動してくれないだろう。

 クオンはいつものように、ポケットの中の使える物を探そうとした。この服は長いあいだ着ていたものではないことに気づく。元の服はアリキーノに破かれてしまっていた。この服は、ガイランが新しく用意してくれたものだったのだ。

 ――できることが何もない。

 本当に、そうだろうか?

 何度も考える。でも、結論は同じだった。

 助けたいだけなのに。シープやガイランさんを、助けたいだけなのに、ボクには何もできない。

 空では、セツナとマホガニーが、アリキーノと戦っていた。二人ともぼろぼろなのに、それでも立ち向かっていた。

 クオンは頭を横に振って自分を叱った。

「諦めちゃダメだ。道具でもなんでも、ないものは作ればいいってグレイお兄ちゃんは言っていたもん」

 はっとする。

 魔法を作る。

 まだまだ未熟なボクに作れるわけがない。でも、今はそれしか方法はないような気がする。

 クオンは、これまで習った魔法やその原理を思い出し、ありたけの知恵を絞って、考え始めた。

 弱った精神を回復させる魔法。魔力を回復させる魔法を。

 再会を喜んでいる暇はなかった。

 大勢の大切な分身たちをなくしてしまったアリキーノは、憎しみのこもった目でクオンたちを見た。

「あなたたち、許さないわよ」

「そんなセリフを吐くくらいなら、初めからあんなか弱い虫をけしかけないで、自分で私たちを始末しようとすればよかったんだ」

 鼻でせせら笑うセツナを、マホガニーが慌てて止めた。

「あおってどうするっ! 早く逃げるんじゃよっ!」

「逃がしてあげないっ!」

 アリキーノは、クオンたちを拾いにきたマホガニーに向かって、巨大な火のバラを投げつけた。間一髪でマホガニーはそれを避ける。

 アリキーノは、自分の城や庭の木々が燃えるのもかまわず火のバラを次々と手のひらに生み出し、クオンたちに投げ付けた。とりあえず、バラバラになって逃げる。クオンは足が遅いので、一人だと危険だと思ったガイランが抱えて逃げた。

 アリキーノの攻撃は、めちゃくちゃに見えてちゃんと考えられていた。おかげで一定範囲から先に逃げることも、アリキーノに近づいて攻撃することもできない。

 そんな中で、ただ一人だけ、炎がまったく平気なセツナはアリキーノに突進した。

 アリキーノは、セツナの蹴りを上空にはばたいてかわした。

「ふふふっ。そう、あなたは火は平気だったのよね? でも、あたしがこうして空にいれば、あなたの手はあたしに届かない」

 アリキーノは、特大の火のバラをセツナに投げる。火としての役割は期待していない。空気弾として投げたのだ。セツナは避け切れず右肩にそれを食らってしまい、地面を転がった。

「セツナお兄ちゃんっ!」

「私のことは気にするな」

 ガイランは、セツナを心配して叫んだクオンに言った。

「クーちゃん。少しの間、一人でも平気?」

 クオンは力強くうなずく。ガイランはクオンの頭を撫でた。

「じゃあ、これからとっておきの魔法を見せてあげる。僕が一人前だと認められたときの僕が作った魔法を」

 地面に降ろしてもらったクオンは、またうなずいてから、自分の足で走り始めた。

 ガイランは少しの間それを目で追いかけて、それから呪文を唱えはじめた。

 それは、ガイランを象徴しているような魔法だった。

 闇のみか得た御体

 聖起こす氷慈悲

 痛み耐え

 神の宮

 ガイランが魔法を使おうとしていることに、もちろんアリキーノは気づいていた。

「あれは所詮あたしの下僕。あたしに勝てるわけないじゃない」

 どんな魔法かは知らないけれど、魔法が発動した瞬間にそれを防げばいいと、アリキーノは考えていた。

 それは少し甘い考えだった。アリキーノの上下に、真っ二つに割れた球が生まれる。火のバラも砕ける。二つの割れた球がくっついて、アリキーノはその中に捕われた。

 ガイランは、上空のマホガニーに叫んだ。

「早く、みんなを連れて逃げろっ!」

 マホガニーは急降下して、クオンを拾って、それからセツナに向かった。

 間に合わない。

 氷の球が内側から粉砕する。

 アリキーノは、ガイランに微笑んだ。

「あたしに恥をかかせるなんて、下僕のくせにナマイキよ。罰として、しばらく燃えて苦しみなさいっ」

 アリキーノが指を鳴らした。ただそれだけで、ガイランのかりそめの肉体は黒い炎をあげて炎上した。ガイランの肉体は、アリキーノが作ったもの。アリキーノの思いのままなのだ。

 地面をのたうち回って苦しむガイランを見て、クオンとシープはいてもたってもいられなくなって、マホガニーから飛び降りた。

 名前を呼んで駆け寄ったクオンと違い、シープは泣きそうになりながらも、雨を降らせる呪文を唱えていた。

 依れぬ許問いの樹

 鳥鳴かず

 紫雲連雨

 静かなり時の絲

 友濡れよ

 ガイランの上にだけ黒い雲が生まれて、雨を降り注ぐ。火は消えない。

 シープはまた同じ呪文を唱え始める。

 クオンも、涙を拭ってシープのあとに続いた。ガイランを助けたいのなら泣いている場合では無いのだ。

「無駄よ。その炎は、あたしじゃないと消せないの。ほらほら、逃げないと、あなたたちも燃えちゃうわよ」

 アリキーノは、クオンたちに向かって火のバラを連射した。

 目をつむったクオンとシープの前に、セツナが飛びこみ、自分の炎でそれを防いだ。

 セツナは、とっくに切れていた。自分に数々の屈辱を与え、今またクオンたちを泣かせているアリキーノに宣言する。

「私たち魔導書の使命は、四大元素世界の善と悪の調和が取れるようにすること。だからこの世界で貴様らと戦うことは無意味だ。しかし私は、貴様が許せない。全力を持って、滅ぼさせてもらう」

 セツナがヘアバンドにしているリングが輝き始めた。リングはセツナの頭から外れて、まるで天使の輪のようにセツナの頭上に浮かんだ。同時に、セツナの背中から少し離れた場所で、影のようなものが揺らいだ。それは、一対の黒い翼の形になった。

「黒い天使ってわけね? ふふふ。楽しめそうね。ついていらっしゃい」

 アリキーノは天高く上り、翼を得たセツナもそれに続いた。

 マホガニーは、クオンたちを置いて行ってよいものかと少し迷ったけれど、セツナのあとに続いた。

 城から抜け出したクオンたちの目に、真っ先に飛び込んできたもの。

 それは、庭に咲き誇る真っ赤なバラの木々と、周到に用意した白い丸テーブルにお茶の用意を広げ、イスに腰をかけているアリキーノの姿だった。

 愕然として動きを止めている三人の前で、アリキーノは小指を立ててくいっと白いカップの中身を空にした。テーブルの上の砂時計を見て微笑む。

「コレクションルームから、ここまで二時間四分。待ち切れなくなって皆をけしかけたりしちゃったけど、まあまあのタイムじゃない? 誉めてあげるわ」

「どうして……。どうしてあなたがここに居るんだ!」

 ガイランの反応に、アリキーノは満足そうにころころと笑った。

「いやぁねぇ、ガイランちゃん。執務室に行くって言ったのは、あなたを油断させるためのウソよ。あなたがこういう行動に出るとしたら、あたしが外出しているときか執務室に篭もっているときくらいだろうと思って、言ってみたの」

 呆然としているガイランの首に、クオンはしがみついた。

 アリキーノは、バラのクッキーを口に運んでから言った。

「あなたのあたしに対する忠誠心の低さは、これで証明されたわけだけど、今なら、あたしの足を舐めて謝るんだったら許してあげるわ。どうする?」

「ガイランさんは、もうあなたの味方じゃないもんっ! そうだよね?」

 クオンは、ガイランの頭をゆさぶった。

 ガイランより少し前にいたセツナも、アリキーノへの警戒を緩めないまま、ガイランの様子をうかがった。

 皆に注目されて、ガイランはうつむき加減で静かに言った。

「炎に焼かれて処刑されたあの日。僕は炎の中で、僕の研究を認めてくれなかった魔導師たちや貴族。処刑される僕を見て喜んでいる、全ての人間を呪った。そして、そいつらに不幸をもたらしたいがために、僕はあなたの誘いに乗り、契約してしまった。悪魔は、約束事を破らない。そう信じてきたからこそ、僕は契約のもと、あなたに言われるがままに行動していた。でも、あなたは僕との契約を裏切って、クオンを傷つけた。僕に一番してはいけないことをしたんだ!」

「契約?」

 戸惑うクオンに、ガイランは背中で言った。

「ごめんね、クーちゃん。君を傷つけて」

 クオンは、うれしくなってガイランの首にぎゅうっとしがみついた。ガイランも、クオンの腕に手をかける。

 セツナが身構えたのと、アリキーノが高笑いをしはじめたのはまったく同時だった。

「面白い。面白いわっ! へたな恋愛喜劇よりも、ずっと面白い。ねぇ、みんなもそう思うでしょう?」

 みんな?

 追っ手は城の外まではやってきていないし、アリキーノの手下は庭には一匹もいない。 怪訝に思ってセツナが眉をひそめたとき、クオンが叫んだ。

「バラっ! 庭のバラの花の中に何かがいるっ!」

 アリキーノの周囲に咲いていたバラの中から、花の数だけ、小さなアリキーノが顔を出していた。ミニアリキーノだ。ミニアリキーノたちは、隊列を作って戦いの準備をした。一匹一匹が、攻撃用の小さな火の玉を出している。

「あたしは情熱の炎とバラのマレブランケ、アリキーノ。この庭のバラは、全てあたしの分身。さぁ、あたしの可愛い分身ちゃんたち、あいつらに身の程というものを教えてあげるのよ」

 パニックになっているガイランの肩からクオンは降りた。

「ガイランさん、しっかりしてっ! 火だったら、ボクが消すからっ!」

 クオンが、雨を降らせる呪文を唱えようとしたその時、空から聞き覚えのある声が降ってきた。それは、声の主にふさわしい回文だった。

 凍る雪ひつじ

 暗き落日

 火消ゆる矛

 ミニアリキーノが密集していた場所に、天から太い氷の矛が一本降ってきた。芝生に矛が突きささったとたん、そこから空気が冷やされ、ミニアリキーノたちは次々に凍って、墜落した。

 一秒ほど矛に遅れて、魔法文字でつづられた光る呪文が、本のページからそのまま写し取ったような長方形の隊列を作って落ちてきた。その光る呪文に押しつぶされて、残っていたミニアリキーノたちも、ほぼ一掃される。

 セツナにだけは、それが誰の魔法なのかわかった。

 大勢の仲間が散ったのを見て、無事だった者たちも、おじ気付いて先を急いでバラの中に帰って行った。

「きゃーっ! あたしの可愛い分身ちゃんたちが~っ!」

 今度はアリキーノがパニックにおちいる。

 クオンは空を見上げて叫んだ。

「シープっ!」

「遅くなってすみませんっ!」

 明るい空には、シープと、シープを乗せて飛ぶマホガニーの姿があった。

 アリキーノの城には、廊下や部屋の前の所々に警備のための魔物が配属されている。

 コレクションルームの前に配属されていたのは、五方星のような形をした、全身が白い魔物だった。真ん中にライオンの顔があり、それを囲むように馬の足が五本生えている。ブエルという種族の魔物だ。

 ブエルは、五本の足を回転させて、コレクションルームの前を転がっていた。

 侵入者が現われないかぎり、警備の仕事はひたすら暇なだけだ。城の出入口付近ならともかく、コレクションルームはとても奥にあるので、いまだかつて侵入者がここまで来たことはない。

 最近は、コロシアムやリント砂漠の塔のように、アリキーノがからんでいる場所で事件がたくさん起きているけれど、ここでは何も起こらないだろうと、ブエルは思っていた。配属された当初は、アリキーノ様の狂暴なコレクションが檻から抜け出したらどうしようと気を引き締めていたのだが、一度もそんなことがなかったので、ブエルは少々退屈し、あまり気を使っていなかった。

 ブエルは、コレクションルームの分厚い扉がしっかり閉まっていたおかげで、中で起こった騒ぎにまるで気づいていなかった。

 扉が開く音がした。

 ガイランが帰るのだろうと思って振り向いた瞬間、ブエルは何もわからないまま、その生涯を閉じた。

 クオンを背負ったガイランは、セツナに警備のいる場所と進む道を教え、セツナの後ろを走った。

 ガイランによると、ここは四階建ての城の三階ということだった。四階と言っても、ただの四階ではない。一つの階につき、面積がアリキアの町の十二分の一という広さだ。全体面積をあわせれば、城だけでアリキアの町の三分の一ということになる。しかも、一回別の階に移動しなくては行けない場所もたくさんあって、迷路のよう。つまり、窓から抜け出そうにも、窓がある部屋に辿り着くまでが長いのだ。

 部屋を一歩出れば、アリキーノの城の廊下も階段も全て、やや灰色がかった白で統一されていた。金色だった扉はコレクションルームだけで、他の扉は全て白っぽい。

 どの扉の両脇の壁にも扉を守るように槍を構える一対の悪魔の像が掘りこまれていた。 ガイランは、壁の彫刻の中には自分がアリキーノに頼まれて細工したゴーレムもいて、扉を開けば襲われることもあると、セツナに教えた。敵を増やさないための配慮だ。

 走っても走っても、似たような景色が続いている。時折あかりが灯っては消える。天井が高くて、廊下や階段の幅が広いことだけが救いだ。

 巡回する警備はいないので、要所要所の魔物を手際よく片づければ、楽に進むことができる。セツナは、警備の魔物を見つければ、鮮やかな手口で積極的に殺した。魔物の命を奪った瞬間に、一瞬で炭にする。

 セツナとリングの同調は完全に復活していた。

 たまったうっぷんを晴らすように、嬉々として魔物を殺しながら進むセツナを、ガイランは頼もしくも恐ろしく感じた。

 今また、一つの命が消えた。

 ガイランは炎を見ることにさえ恐怖を覚えるので、セツナが魔物を焼き殺しているあいだ、眼をつむっていた。

 セツナはガイランのために、わざわざ魔物を殺したあと、数で終わったことを報せる。「三十匹目」

「……終わったんだね」

 ガイランはぎゅっとつむっていた目を開き、その場所にいた魔物とよく似たゴーレムをダミーとして配置したあと、元魔物の炭を瓶の中に吸い込ませた。

 いざというときに戦力になるゴーレムを、わざわざダミーとして配置していくのはもったいないが、城の中で警備を勤めている魔物なんてほんの一握りだ。ここが地獄界である以上、メイドも魔物。いざ異変に気付かれたら、城中の魔物が脱走者と裏切り者を血まなこになって探し始めるだろう。見つかれば一巻の終わりだ。

 セツナも、それがわかっているので止めなかった。

 ガイランは、炭が入った瓶をマントにしまうと、今度は、消臭香水を取出し、辺りに噴射した。魔物が燃えた匂いがすっかり消える。

 ガイランが目を開けてからここまで、なんと五秒。

 ダミーの魔物は本物とそっくりだし、手際がよすぎる。

「この脱走はもしかして、娘をアリキーノから取り戻すために計画してきたものだったのか?」

「アリキーノ様が、約束どおりクオンを僕に渡してくれなかったあの日から、不安を紛らわすために計画と準備をしはじめてはいたんだ。でも、僕は臆病だから、本当に実行に移せるとは思っていなかった」

「……そうか」

 セツナは、ガイランの正直なところだけは、信じることにした。

 ガイランは先に走りだした。

「先を急ごう。無事に逃げられるかどうかは、あのひとが執務室にいる間に、どれだけ距離を稼げるかどうかにかかっているんだから」

 追いかけながら、セツナは問う。

「執務室?」

「魔王のために、マレブランケとしての仕事をするときに、あのひとが篭もる部屋。部屋の中は完全に別の空間らしくて、執務室に篭もっている間は外出しているも同然らしい。一回閉じこもれば、長ければ二、三日。短くても半日は出てこないって、初めてこの城に来たときに教えてもらった。その部屋だけには、どんなことがあっても、誰も絶対に入ってはいけないことになっているんだ。あのひとが執務室で仕事をするって言わなければ、僕は行動を起こせなかったかも」

 ガイランの最後の言葉に、セツナはひっかかりを感じた。

 良くない考えが頭に浮かぶ。

 セツナは頭を横に振って、それを消した。

 クオンが目を覚ましたのは、ガイランが五十八匹目の魔物の処理を終えたときだった。 あったかい背中。お父さんの背中……。

「……ん」

 目をこすりながら起きて、クオンは自分がいる場所がわからなくて、きょとんとする。誰かの背中にしがみついている。自分を背負ってくれているのが、ガイランだということにさらにびっくりする。ガイランの肩ごしに、セツナも見える。檻の中ではいつも半分死んでいたのに、今は元気だ。

「あれ? どうして?」

 混乱しているクオンに、ガイランは振り向かずに言った。

「クーちゃん、ごめん。それから、ありがとう」

 全てがゆるせてしまった。

 光が、戻ってきたような気がした。

 ――ああ、ガイランさんだ。ボクの好きなガイランさんだ。

 クオンは、ガイランの背中に顔をくっつけて泣いた。

 うれしくて泣くことは、自分にゆるそうと思った。

 城が騒がしくなったのは、クオンが目覚めて間もなくだった。

 ここまで誤魔化し誤魔化しやって来たけれど、とうとう城の中の魔物たちにばれてしまったのだ。

 どやどやと、魔物が押し寄せてくる。

 セツナにばかり戦いを任せてはいられない。ガイランは、持っていた小瓶の蓋を全てはずし、後ろの足止めはゴーレムたちに任せた。

 セツナとガイランは、進むべき方向の敵だけを倒して走った。

 もちろん、クオンもしっかりガイランの背中にしがみつきながら、ときどき魔法を唱えて敵を撃退した。自分の弱さに気づきそれを認め、さらに立直ったことによって、精神的に成長したせいかもしれない。クオンの魔法は、一回ごとに目に見えて上達していた。

 殺されちゃうかも知れないのに、なんでだろう。恐い気持ちより、うれしい気持ちの方が強いや。

 薄汚れた階段を駆け降りる。

 下には、いかにも裏口というような質素な扉があった。

「私たちが目指していたのは、あの扉か?」

「ああ、そうだ。あそこから、庭の裏に出られる」

「ボクたち、助かるんだねっ」

 誰の目にも、その扉が、どんな扉よりもすばらしく見えた。

 三人は、長い迷路のゴールに飛び込んだ。

 クオンの口から言葉がもれる。

「あれ、右手の中指が動かない。でも、大丈夫。弓は持てるね。ありがとう、ガイランさん。裏切っても、やっぱり好き。これ、本当の気持ち」

 今を耐えれば、アリキーノは、いつかクオンを自分に返してくれるだろう。

 でも――。

 ずっと押さえ続けていたガイランの衝動が、クオンの告白でついに限界を超える。

 感情のままにガイランは行動を始めた。

 檻の鎖の長さを調節する、壁の隠しパネルを開き、スイッチでセツナの檻を降ろす。

 ガイランが何をしようとしているのかを察した他の檻の中の者たちは、自分も檻から出して欲しいと、口々に懇願した。ガイランは、それらを無視した。

 檻の鍵はアリキーノが持っているので、ガイランはどんな金属も錆びてしまう呪文を唱える。その呪文は、クオンを地下牢から助けるために、シープが使ったのと同じ魔法だった。

 世知り何故か身は朽ち

 数無し音血の色

 命十死なず

 家畜食み

 風鳴りし夜

 セツナの檻の扉が開かれた。

 セツナはガイランの突然の豹変ぶりに驚いていた。

 薬のせいで動けずにいるセツナの口元に、ガイランはマントの下から青色の液体が入っている瓶を取り出し、蓋を開けて突きつけた。

「飲んで。君が注入されていた薬は、僕が調合したものだ。これはその解毒剤」

 もし瓶の中が毒だとしても、情況がこれ以上悪くなることはない。

 セツナはその液体を意を決して飲んだ。

 解毒剤がセツナの体中に回るあいだに、ガイランが再び魔法の呪文を唱えると、セツナの手錠と足枷は錆びていった。手錠と足枷はずれた。

 薬が身体中に回るのを待ちながら、セツナは尋ねた。

「どういう心境の変化だ?」

 ガイランは白い歯を見せて笑った。

「僕の人生の別れ道は、炎の中でアリキーノと契約したときだった。でもクーちゃんの別れ道は、今なんだ。自分の弱さに負けてしまう人間になるか、自分の信念を貫ける人間になるか、決まってしまうのは今なんだ。アリキーノはクオンを殺しはしないと思う。でもこのままここにいたらクオンの心の強さは永遠に失われてしまう。僕は、それだけは耐えられない。僕は負の感情に流されて、他の信念は全て捨ててしまったけれど、クオンの親代わりで在り続けたいんだ」

「親代わり? 何だそれは」

 薬が効きはじめてきたのか、セツナは言い返してきた。

「たとえクオンがそう思ってくれなくても、僕の中のそれだけは譲れないんだ。……僕はアリキーノと契約をかわしている。だから下僕にだけ作用する結界に阻まれて、アリキーノの許可なしではこの城が建っている島から外に出ることはできない。行けるところまで……、出来たらこの島の出口まで案内する。君は、クオンが持っている久遠の魔導書の仲間だ。だからその先は、君にクオンを守ってほしい。僕が君を捕まえられたのは偶然だ。本当は僕なんかより、ずっと強いんだろう?」

 セツナは呆れてしまった。

 この男は、本当にあの娘のことしか考えていない。

「お前には、プライドというものがあるのか? 長いあいだ生きてきたが、自分で策にはめた相手に、ぬけぬけと頼み事ができるほど面の皮が厚い人間を見たのは、お前が初めてだ」

「虫がいいのはわかっている。でも、今は君にしか頼めないんだ」

 ガイランは、必死だった。

 セツナの全身に回った薬は、本当に解毒剤だった。檻の中から抜け出しながらセツナは言う。

「……まぁ、いい。自力でこの城を抜け出すのは困難だろうから、仕方がない。頼まれてやる」

「ありがとう」

 ほっとして息をついたガイランを見てセツナは、ガイランの思惑通りに動くしかない自分に腹が立った。

 クオンの拷問が終わったのは、空がすっかり明るくなった真夜中だった。

 アリキーノにしてみれば、まだまだ拷問はし足りなかったけれど、十二歳の精霊と人間のハーフの女の子を拷問するのは初めてだったので、死なない程度ということを考えれば切り上げるしかなかった。

「エキサイトした事だし、バラのお風呂に入ったあと、あたしは執務室で、魔王様から頼まれていた仕事を少しやってから眠ることにするわ」

 アリキーノから命ぜられて、檻の中に戻すため、ガイランはクオンを両腕に抱えてコレクションルームに戻ってきた。

 クオンは、両手の全ての指を砕かれ、体中に悪魔文字の焼きごてで呪いの言葉を刻まれていた。もしここにシープがいたら思っただろう。塔で、久遠の魔導書がクオンの肌に浮かび上がらせた光の文字とは違い、なんて痛々しく、まがまがしいのだろうと。

 ガイランがマントの下から取り出した黒いハンカチは、端をつまんでパサリと振っただけで、大きな布になった。床に広げられたその布の上に、クオンは寝かせられた。

 あの日、セツナの前で初めて弓の力も借りずに魔法を使えた日から、クオンは自分のなかにある久遠の魔導書の存在を感じられるようになっていた。

 目を閉じれば、まぶたの裏に久遠の魔導書が映る。

 真っ黒な表紙に、金色の六方星が見える。六方星の上に、見覚えのある文字ではっきりと本の題名が書かれてあった。

 ナガレの魔導書。

 クオンは、一番初めに檻で目覚めたとき、今すぐにその力が欲しいと思った。

 でも、開き方がわからない。開くように念じても、反応はない。クオンの力を求める想いに、久遠の魔導書は応えてくれなかった。

 ガイランは、涙を流しながら治癒の魔法を唱え始める。

 はじめは手からだ。

 楽器を扱う者にとって、手は一番大切だ。指を砕かれたとき、ヴァイオリンを奏でることが何よりも好きなクオンは、どんなにショックを受けただろう。

 緑色の光がガイランの両手から放射される。

 進呈

 彼の治癒の詩や

 癒しの湯

 地の愛天使

 爪が割れ、真っ赤な血と肉の間から白い骨が見えていたクオンの指は全て、爪の表面まで完璧に元に戻った。

 次は破れた服の間から見える、全身に刻まれた火傷だ。

 血に染まりボロ布と化した、クオンの服と下着を、ガイランは丁寧に脱がせた。

 あらわにされたクオンの胸はやっと膨らみ始めたばかりで、それがよけいに、クオンが成長途中の子どもだということを、ガイランに印象づけた。

 治癒の途中で、一度だけクオンは目を薄く開いた。

 クオンは今、現実にいるのだろうか?

 それとも夢のなかをまどろんでいるのだろうか?

 クオンは、側にいるガイランにやっと届くくらいの小声で呟いた。

「ガイランさんが、本当はアリキーノの味方で、ボクを裏切ったって知ったとき、とても悲しかった。酷いと思った。でも、今ならわかる。だから、今は、ガイランさんのこと、酷いとか言わない。あんな風にされるってわかっていたら、誰だって、どんな大切なものも裏切るよ。ボクだってもしかしたら……。自分の正義を貫けるほど、強い人間なんて、めったにいないんだから……」

 ただ治癒の呪文だけを、ガイランは繰り返し唱えた。

 クオンは、あれだけみっともないところを見られたあとなのに、裸を見られて、触られて恥ずかしいと思っていた。恥ずかしさを紛らわすために、口を動かし続ける。

「お父さんとか、周りにいる人が皆強かったから、ボクも心だけは強いつもりになっていたんだ。バカだよね。……ボク、最低。涙がこぼれちゃうよ、泣かないって決めたのに。ああもう、どうして世の中は、キレイなものだけでできていないのかな? もしも、これを誰かに押しつけられたらって、思っちゃったもん。世界が全部がキレイで、優しかったら、ボクは自分がこんなに嫌な人間だなんて、気づかなかった」

 治癒が終わる。

 ガイランは指一本動かせずにいるクオンに、新しい下着と服を着せ始めた。

 恥ずかしいと思うクオンとは反対に、ガイランは心を痛めていた。

 ガイランはクオンを、とても大切に思っている。でもその気持ちは恋愛ではなく保護心だ。それはクオンにとって、きっと幸福で不幸なのだろう。

「セツナお兄ちゃんは、世の中には、良いことも悪いこともなくちゃいけないっていってたけど、やっぱりボクはいいことだらけの方がいい。ボクの好きな物語ではね、悪い人も最後は主人公の味方になっちゃうの。最後は、みんなみんな仲良しになっちゃうの。一番悪いヒトもだよ? ……痛いのとか悲しいのは、もう、イヤだよ。幸せがいい。幸せだけが本当がいい。みんなみんな、食物さえいらなくて、愛だけで生きていけたらいいのに。恋が全て正しければいいのに。なんで、キレイな気持ちだけで生きていけないのかなぁ」 クオンはまた、目を閉じた。

 愛だけで生きていけたらいいのに。恋が全て正しければいいのに。

 その言葉は、ガイランの胸に突きささった。

 人間は、愛だけでは生きられない。食べなくては死んでしまうし、自分の力を示せる方法も欲しい。文化的に生活するには、お金が必要だ。

 六歳のあのときまでは、ガイランは、確かにナガレと一緒にクオンを育てた。血は繋がっていないけれど、親代わりではあった。それは、ガイランの幸せだった。研究をすることよりも他の何よりも。

 ――愛だけで生きていけたらいいのに。恋が全て正しければいいのに。

 本当に、そう思うよ……。

 ガイランは、いつの間にか自分の目に浮かんでいた涙をぬぐった。