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一万倍 5話

 目が覚めてから、僕は部屋を出て階段を降りた。イソルデがキッチンの傍で編み物をしていた。まばゆい日差しがイソルデに降り注いでいた。
「あら、おはよう。よく眠れたかしら?」
「ええ、とても」
僕は答えてから地下へ行き、顔を洗った。
一階に戻ってくると、卵を焼く匂いがした。僕は席について外を眺めた。昨日の雨が嘘のように晴れ渡り、抜けるような真っ青な空が見えた。
「今日はお姫様を探しにゆくの?」
「まだ決めていません」
「本当に何も決めていないのね」
イソルデはコーヒーを僕の前に置いた。皺ばんだ手に生えた産毛がきらきらと光っていた。
「何時にここを出るの?遠くまで行くならランチを持たせてあげるわ」
僕はそうかと思った。僕は勝手にこの家に何週間もいるようなつもりになっていたが、もうチェックアウトしなければならない時間なのだった。
「もう一泊してもいいですか?」
「もちろん。話し足りなくて残念に思っていたから」
イソルデは目玉焼きとト-ストを僕の目の前に置いた。
 僕が朝食を食べる間、イソルデはいろいろと僕に質問した。日本のどこに住んでいるかとか、兄弟はいるかとか、仕事は何をしているか、他にどんな国にいったか、とにかく思い付くままに僕に質問した。
 僕は答えられることには答え、答えたくないことには適当に嘘をついた。
「やっぱりあなたは変わっているね。ここにもたくさんの人が来たけど、あなたが一番変ね」
僕が朝食を食べ終えるのを見届けてから、イソルデが言った。
「そうですか」
「どこかあなたが好きそうな場所を教えたいけれど、思いつかないわ」
「いいですよ。その辺をぶらぶらしますから」
「それなら、ここの近くに川が流れているから、そこを歩くといいわ。下流にいくと大きな公園があるから。私もたまにそこで本を読んだりするのよ」
「そうします」
「近くに大学があるから、お昼はそこで食べるといいわ。川を目印にすれば道には迷わないでしょう」
僕はイソルデB&Bを出て川沿いを歩いた。住宅街にはやはり人影はなかった。昨日、宿を探してここをさ迷ったので、川の存在は知っていた。
 空気は冷たかったが、日差しは暖かかった。僕は上着を脱いで歩いた。
 イソルデがいったとおり、大きな公園が見えた。公園では家族連れがボール遊びをしたり、カップルが犬を連つれていたりした。首輪を外された犬は嬉しそうに芝生の上を走り、周りの人に近寄っては愛嬌を振りまいている。
 僕はベンチに座って、川を見ていた。水面が滑らかに光を反射して、その下には大きな魚の影が見えた。本が欲しいと思ったが、何も持ってきていなかった。僕は東京の少ない友人のことや、シゲルのこと、今は店を閉めてしまったウエストエリアのことを思い出していた。
 突然、後ろから声をかけられて、それが日本語だったので僕は驚いて振り返った。
 白人の女性がまぶしそうにこちらを見ていた。白いコートにジーパンとスニーカーを履いていた。
「日本人でしょう?」
彼女は流暢な日本語で言って、隣に座った。
「東京に住んでいたことがあるのよ」
青い瞳で僕を見る。
「どうりで日本語がうまいと思いました」
「もう五年も前だけれどね。二年間、高校に通っていたの。本郷にある大学だったわ」
僕はヘルガと名乗った女性の横顔を見た。髪は肩まであって黒かったが細く、微妙なクセがあった。耳の赤いピアスが鮮やかにみえた。
「今はこの近くの大学に通っているの」
それからヘルガは色々と僕に質問した。また質問攻めか。と思ったがイソルデのように絶え間なく質問はせずに、時々、自分のことを話しては、少し黙ってまた質問した。態度も口調もゆったりとしていて、心地よかった。
「大学では何を専攻しているの?」
ヘルガは少し首をかしげて考え込んだ。
「ゴミ分別科ね」
はあ、と僕が間の抜けた声を出すと、ヘルガはくすくすと笑った。
「本当は地球環境科よ。でもみんなゴミ分別科というの。ゴミのことばかり勉強しているから」
「なるほど」
僕も笑った。
「まだどこにも行ってないのなら、わたしが案内するよ。ドイツの川も日本の川もそれほど変わらないでしょ?」
僕は彼女と連れ立ってバスにのった。ダウンタウンまで出てから、ベルリンドームやフランデンブルク門、ニコライ教会を見て回った。
 ヘルガの屈託のない笑顔と澄み渡った空が僕の心を軽くしていた。彼女は時々、日本語を忘れたと言って、もどかしそうにしていたが、その様子も可愛かった。
 ヘルガに誘われてカフェに入った。どこにでもあるカフェだったが、空がよく見渡せた。
「空ばかり見るのね。門に行っても門は見ずに空ばっかり眺めてる。癖なの?」
「空が綺麗なんですよ」
「日本の空よりも?」
「日本のも綺麗ですけどね」
僕は何となく、捜し求めている女性も今日、この空を見ただろうかと思った。見ていないなら、教えてあげたいと思った。
 ふーんとヘルガは言って、髪をつまみながら空を見つめた、光に照らされた髪が濡れているように光っていた。
「髪を染めているの?」
僕は頭の中で二つに分けた髪の分け目から少し金髪が伸びているのに気がついた。
「そうよ」
「どうして?ブロンドのほうがいいんじゃない?」
「そうかな?私は黒髪が好きよ。似合わない?」
「それはそれで似合っているけど」
「ならいいでしょ、ここではブロンドはいくらでもいるもの。ブロンドが貴重と思うのはシンジが日本にいるからよ」
「そうかもしれないね」
それからまた色々と話をした。ヘルガは笑顔が似合う人だった。時々、幼い無邪気そうな顔をしたかと思うと、バッグの中を探る仕草や、腕時計を見る様子はとても大人びていた。
「シンジ、サングラスを外してみてよ」
と突然言った。
「似合わない?」
僕が言うと、ヘルガは首を振った。
「とても良く似合っているわ。日本人でそこまで似合う人はそういないね。でも外してみて」
僕がサングラスを外すと、ヘルガは僕の顔をまじまじと見た。
「どうしたの。変な顔?」
気恥ずかしくなって言うと、
「ううん、やさしそうな目ね」
そう真剣に言うので、僕は恥ずかしくなってサングラスを付け直した。
「あなた、ビリヤードはできる?お酒は飲める?」
「両方とも人並みにね」
「じゃあ行きましょう。いい店があるの」
「こんな時間から?」
「冬のドイツは夜が早いの。もうすぐに日が落ちるわ」
僕たちはカフェを出て街を歩いた。空に夕闇の色が混じると、たちまちショーの終わった劇場が照明を落とすように暗くなった。
 道を歩いていると、ヘルガが二人連れの男とばったり出くわして何か話している。僕は少し離れた場所からそれを見ていた。ヘルガの姿はベルリンの町に溶け込んで映画のワンシーンのように自然だった。僕は自分がとても浮いた存在のような気がした。
「大学のクラスメートなの。さあ、行きましょう」
ヘルガは学友と別れてから僕に言った。なんだかヘルガの存在が少し遠くなったようだった。
「どうしたの?早く。店が混むわ」
不自然を感じたまま突っ立っている僕の手をつかんで歩き出した。その手はみずみずしくて温かかった。
ヘルガは一軒のバーの前で足を止めた。塀が家を取り囲んでいて、バーというよりもパーティー会場のようだった。
「ここなの?」
鉄格子から中を覗くと、折りたたんだパラソルとプールが見えた。それに面した店の壁はガラス張りになっていて、間接照明の中で動く人影がまばらに見えた。
「高いんじゃないの。ここ」
「そんなことはないわ。普通よ」
僕は促されるままに格子を開いて入ってゆくヘルガの後についていった。
ドアを開けるとダンスミュージックがすごい勢いで僕の周りを通り抜けていった。
店員がヘルガを見て声をかけ、そして僕に何か言ったが、ドイツ語でわからなかった。僕達は店員に案内されて店の奥に進んだ。広い店内には背の高い鉢植えがところどころに置かれていて、それを避けるようにテーブルが並んでいた。ほとんどのテーブルにはもう客がいて、酒を飲んでいた。店内のBGMにまじってビリヤードの玉がぶつかりあう乾いた音が聞こえてくる。
ヘルガはカンパリを頼み、僕はモスコミュールを頼んだ。
「ドイツ人はビールばかり飲んでいるわけじゃないからね」
「日本人だって日本酒だけ飲んでるわけじゃないよ」
そうね。とヘルガは楽しそうに笑った。
 何杯かカクテルを飲んだ後、ヘルガは僕をビリヤードに誘った。
「ナインボールは知ってる?」
「しってるよ。それしかやったことない」
「ならいいわ」
ヘルガは台の下から玉を取り出して、慣れた手つきでセットした。
 台の上に身を乗り出すと、緑のラシャの上にヘルガの濃い影がおちた。
 僕たちは四回ゲームをした、戦績は二勝二敗の五分だった。ヘルガはキューを構える姿もなかなか堂に入っていて、手ごわい相手だった。僕はウエストエリアで客に誘われて遊んだことを思い出しながら玉を撞いた。
 それから今度はダーツをした。こちらは僕の全勝だった。
「シンジは何でもうまいのね」
ヘルガが感心して言った。
「アルバイト先にどちらもあったんだよ」
「どうしてダーツのほうが得意なの?」
「ダーツは一人でもできるからね」
酒が回ってきて、僕たちは何の価値もなさそうなことを熱心に話した。僕がウエストエリアで働いていた頃にであった、奇妙なお客のことや、火事のことを話すとヘルガはそのたびに僕の瞳をまっすぐ見た。
「日本に居るときね、歯が痛くなって歯医者にいったの。そしたら医者が『口笛を吹いてください』って言ったの。もちろんおかしいと思ったけど、日本ではその音で何かを診察したりするのかと思って、吹いたわ。そしたら、口笛を吹いてください。ではなくて『口紅を拭いてください』だったの。もう恥ずかしくて、まともに医者の顔も見られなかったわ」
僕はその話に腹をかかえて笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだと思った。笑い転げる僕を見て、ヘルガは嬉しそうにしていた。四杯目のカクテルを注文してからヘルガが「ねえ、シンジ」と言った。
「あなたが探している女の人って、どんな人なの?」
「どうということはないよ。昔の友人だよ」
「嘘よ。そんな程度の人に会うためだけに、ここまで来るはずないもの。もっと大切な人でしょう、好きな人なの?」
「違うよ。ただ僕はその人にひどいことをしてしまったんだ。会えるならそれを謝りたいかな。でも正直、会おうかどうか悩んでるし、会えるかどうかもわからない」
ヘルガは空になったカクテルグラスの縁を指でなぞった。
「あなたにそう思わせるような人ってどんな人なのかしらね」
ヘルガは運ばれてきたカクテルを止める間もなく一気に飲んでしまった。
「その人はどこにいるの?ベルリン?」
「ポツダムだよ」
僕は言った。それから彼女が少し精神をおかしくして長いこと療養施設に入っていることを話した。なぜこんなことを話すのか、自分でも不思議だった。
目を伏せてそれを聞いていたヘルガは僕のカクテルを飲み干した。
「飲みすぎだよ」
僕が言うと、ヘルガは少し笑ってありがとうと言った。そして腕時計を見た。
「出ましょう。少し歩きたくなったの」
僕たちは店を出て町を歩いた。もうダウンタウンからは外れていたので、町の人通りは少なくて静かだった。
 歩いている間、ヘルガは黙っていた。僕は一度、店の中と同じように話し掛けてみたがあまり反応がなかったので、黙ることにした。
 ヘルガとであった場所よりもずっと整備された公園に入った。中央ではライトアップされた噴水が水を拭いていた。
「ここの噴水は冬でも凍らないようにできてるのよ」
ヘルガは立ち止まってこちらを見た。息が白い蒸気になって空に登った。そして上着のポケットから手を抜いて、僕の腕をつかんだ。僕が黙っているとヘルガは両手で僕の体を包み込むように抱きついた。
「あなたはとても女の人にモテるでしょう」
「そんなこと言われたことない」
「それはあなたの周りの女性の目が節穴か、あなた自身が気がついてないだけ」
ヘルガの手に少し力が入った。
「背も高いし、サングラスが似合うし、ダーツもビリヤードもうまいわ。そして何よりやさしいもの」
僕の手が居場所を探して、ヘルガの腰に手を置いた。ヘルガはそれに応えるように密着してきた。
 ヘルガは囁くような小さな声で何か言った。ドイツ語だった。そして顔を見上げた。
僕たちはそうすることが当然のように唇を重ねた。まるで何年もそうしてきたかのようにスムーズな動作だった。
「部屋に来て。ここからそんなに遠くないの」
「それはダメだよ。宿に戻らないと」
「私が電話するわ。シンジは今日は戻らないって」
イソルデの皴の目立つ顔が浮かんできた。
「もう寝ているよ」
そう。とヘルガは言って、手を離した。
「明日も会える?」
「何も予定はないよ」
「じゃあ、今日会った場所で待っていて、大学が終わったらすぐに行くわ」
ヘルガはそういって、歩き始めた。
 僕は通りでタクシーを止めて乗り込んだ。ヘルガがドイツ語で行き先を言ってくれた。
「それじゃあおやすみ」
「おやすみなさい」
扉が閉まってタクシーが走り出した。
 僕は急速に冷えていく思考の中で、ポツダムにいる女性のことを考え、ヘルガのことを考えた。
 ダウンタウンを通ると、様々な色の光が車内に流れ込んできた。そのせいで窓に移る僕の顔が赤くなったり青くなったりした。
(僕は何をしてるんだろう)
宿に帰ってもイソルデはもう眠っていて、真っ暗な慣れない部屋に帰って眠るのか。そう思うと何だか寂しくなった。

 

一万倍 4話

 あの女性と別れてからのことを、僕はあまり覚えていない。あの出来事の直後よりも、僕の心は人間らしくなっていたはずだが、その時のほうのことはすっかり忘れてしまっている。
 世界に人が少しずつ戻ってきて、町にちらほらと人の姿が見えるようになった。みんな野犬のように町をうろついて、合流し小さな集団をつくって食料をさがす日々だった。
 ある程度の数まで人が戻ってくると、細々と生産が始まった。そのうちにも人はどんどん戻ってきて、野犬に等しい毎日から、生活らしい生活が送れるようになった。
 電線が電気を流すようになると、以前と変わらない生活が戻ってくるまでは早かった。
 電車が動き、工場が稼動し、学校や会社が再開された。物の流れはさらなる物の流れを呼んで加速していった。
 僕は一人でその世界を生きた。友人や知人が戻ってきているかもしれなかったが、あの町、芦ノ湖の湖畔の町に戻る気になれず、箱根を越えて富士山が綺麗に見える小さな町で暮らし始めた。
 幸いなことにここには自衛隊の駐屯地があったから物資が豊富だった。多くの人がその物資を目指して集まってきて、その町は周辺で一番にぎやかな町になった。
 僕はそこで自衛隊の出す小さな仕事のおこぼれを貰いながら二年間暮らした。僕には食料と寝る場所が保障されている学校に行く権利があったけれど、行くつもりはなかった。
 仕事がある日は外にでて、荷物を運んだり、飛行機や戦車の整備をしたりした。無い日は無人の図書館へ行って本を読んだり、勉強してみたりした。
 何人かの友人ができたが、彼らは生活が安定してくると元々の住処だった東京や横浜へと家族と一緒に去っていき、また新しい人が来た。
 多くの人たちが僕の前に現れて、去っていった。僕にとってもそれは気楽で良かった。同じ人間と深く付き合うのはとても億劫だった。
 僕はある日、空港で荷物の受け降ろしの作業をしていた。大型のヘリで運ばれてきた荷物には食料もあったし、歯ブラシや衣類などの日用品、銃器の類もあった。
 かなり暑い日で、僕は汗だくになりながら荷物を運んだ。はじめは重くてつらかった作業もその頃には平気でこなせるようになっていた。
 僕は米の入ったビニール袋を担いで、ヘリポートから兵舎を何度か往復した。
 数人の男性が積み上げられた荷物の数をチェックしていて、僕は兵舎の中に見知った顔を発見した。
 彼も僕に気がついて、手にしていた器具を放り出して走りよってきた。
「シンジ君、生きていたのか」
そう驚きの声をあげて、僕の方に手をおいた。自衛隊の制服の襟に赤い一本線の 章が縫い付けてあった。
「こんなところにいたなんて。どうして」
青葉シゲルはまじまじと僕の顔を見た。彼とは芦ノ湖畔の町にいた頃、施設の中で何度も顔を合わせた。年も離れていたし、その頃には彼は二十代後半だったはずで、友人とは呼べなかったが、お互いに良く知っている間柄だった。
 彼は施設にいた頃の長髪を切って髪を短くしていた。もともと、若く見える方だったが、髪を切ったせいで、むしろ若返っているようにみえた。
 シゲルはちょっと待って。といってから戻っていき、部下らしい人に何か指示をしてから戻ってきて、僕を休憩所に誘った。
「あれから、みんなをずいぶん探したんだ。結局、ほとんど見つからないままだけれど、今も探している」
シゲルはアイスコーヒーの入ったプラスチックのカップを僕に渡した。
「会ってどうしようというんです?」
僕が言うと、彼は煙草を取り出して口にくわえて
「どうということはないよ。ただ探しているだけさ」
といった。それから僕の生活についてあれこれ質問して、それから自分のことについて話した。捜し求めている人に会えたのが嬉しかったのか、よく喋った。
「それで、あの子は。アスカは君と一緒じゃないのか」
僕は首を振った。あの出来事の後、数日間だけ共に過ごして見殺し同然に分かれたことは話さなかった。
「赤木さんも君のお父さんも行方不明のままだよ」
父の名が僕を不快にさせた。二年間、ずっと忘れていた父だった。
「他のだれかと連絡は取れたんですか?」
僕は話を変えたかった。
「マコトとは連絡を取ったことがあるよ」
「よく会うの?」
「いや、一度連絡はしたけれどあっていないよ。確か埼玉の大学で助教授をしてるとか言ってたな」
シゲルは唇の端から煙を吹いた。
 マコトはシゲルの同僚で同じような仕事をしていた。僕は何度か二人が施設の中で話しているのを見かけたことがあった。
「探していた割には淡白ですね」
「俺はもともと、マコトとは馬が合わなかったんだ」
「知りませんでした。仲が良いのだとばかり思ってました」
二人が仕事以外の話で笑っていたのを思い出した。
「まあ、俺たちぐらいの年になると、そういう事もあるんだよ」
短くなった煙草を灰皿に押し付けて独り言のように呟いた。それからマコトの話題を避けるように僕にいつまでここにいるのかと聞いた。
 お互いに話題には話したくないことが多かった。小さいシャツを着るような窮屈な会話だった。
「俺は東京にいる。友人たちと家を一軒丸ごと借りてるんだ。君も来るといい。ここよりは良いはずだよ」
いい加減、ここでの生活にも飽き始めていた僕はその話に少しだけ興味を持った。
「その友人たちにはあそこで働いていたことを話しているんですか?」
「まさか」
シゲルは苦笑いした。
「そんなこと言えるわけがない。あれは俺の一生の秘密だよ。だから君がもしウチに来ることがあっても話さないで欲しいな。親戚とか何とか言っておいてくれればいいよ。みんな一癖も二癖もある連中でね、同居人の身の上を詮索したりはしない」
「そうですか。考えておきます」
「ああ、あそこにいればお父さんや友人にも会えるかもしれない。もっとも、俺はここで君と出会えたわけだけどね」
シゲルはカップをゴミ箱に投げ捨てた。
「じゃあ、俺は仕事に戻るよ」
シゲルはそう言ってまた僕の肩に手をおいた。
「それにしてもたくましくなったね。背も伸びたし。見違えるようだよ」
そういい残して足早に出て行った。
 僕がシゲルの元を訪ねたのはそれから半年後だった。荷物は着替えが数枚と、本が数冊だけだった。
 シゲルは確かに僕を歓迎してくれて、家の開いている部屋を使わせてくれた。ここを拠点に働くなり、勉強するなり、自由にしていいとのことだった。
その代わりに週に一度、家の掃除をしてくれれば家賃は払わなくていいと言ってくれた。彼の好意は確かにありがたかった。
僕が部屋に荷物を下ろしていると、シゲルは石鹸や歯ブラシなどの日用品の入ったビニール袋を置いた。
「バンドをやっている奴が何人かいるから、俺もその一人だけれど、たまにうるさくても我慢してくれよ」
「はい。ありがとうございます」
それからシゲルはいくつかこの家のルールを話した。風呂は年上が優先で、ゴミは一ヶ月以上貯めないこと、女を連れ込みたいときは事前に連絡すること。などだった。
「それからメシの世話は自分ですること。これが一番大事だよ」
「わかりました」
シゲルは部屋を出て行く直前に思い出したように振り返って言った。
「冬月教授は死んだそうだ」
僕は呆気にとられてシゲルを見た。長身に白髪の濃かった冬月の顔が浮かんできた。彼はいつも父の隣にいて、父を嫌いながらも、父の最大の協力者だった。
「ふるさとの京都でね。病気だったそうだ。昨日、マコトが知らせてきた」
「そうですか」
僕は言った。悲しくも何ともない気持ちが声に出た。
「俺も始めて知ったけれど、マコトは冬月教授とは大学を通じてよく連絡を取っていたそうだ。だから今日は葬儀に行くらしい。もしかすると色々と分かるかもしれないね」
「分かるって、何がです」
「みんなの消息さ」
シゲルはなにをそんなに過去の同僚たちの消息を知りたがるのかと思った。
 僕は翌日から仕事を探した。四日目に家から歩いて十五分ぐらいの場所にあるバーが給仕を探していると聞いて、すぐにそこで働くことにした。
 給料は安かったが家から近かったし、なにより賄いがでるのがよかった。僕はシゲルから最初の給料が出るまでの支度金といって渡されたまま、机の上に放置してあった封筒を返した。
「あの店には何度か行ったことがある。昼は喫茶店で夜になるとバーになる店だろ?」
僕はシゲルの部屋で足がひとつ折れかけている椅子に座り、シゲルは書類や吸殻が山のように積もった机に向かっていた。膝の上においたギターの弦をさすりながら、ビールを缶からコップに注いで飲んでいる。
「あそこで、何度か演奏させてもらったことがあるよ。あそこのマスター怖そうだろ?」
「はい」
僕は口ひげを生やした目つきの鋭い顔と、労働条件をポツポツと呟くように話した声を思い出していた。
「あまり話さない人だけれど、いい人にはいい人だよ」
「ええ、僕もそう思いました」
「なにしろ、働き口が見つかってよかったね。あそこはけっこう、若い連中も来るんだ。すぐに友達もできるだろうね」
シゲルはうんうんとうなずいてから弦を指ではじいた。ぼーんと低い単純な音が響いた。そして少し息を吸い込んだ、僕は歌でも歌い始めるのかと思ったが、彼は机に積み上げられた書類の上に置いてあったノートに手をかけた。
「今日、マコトの奴と会ってきたんだ」
「マコトさんと?仲が悪かったんじゃ」
「別に喧嘩してるわけじゃないし、嫌っているわけでもない。ただなんとなく居心地が悪いだけだよ」
彼はノートを僕の目の前に差し出した。かなり古いノートだった。
「マコトが冬月教授の研究室で見つけたそうだよ。それで君のために持ってきたそうだ」
僕はノートのページをぺらぺらとめくった。難しい講義の内容が女性の字でびっしりと書き留められていた。
「君のお母さんのではないか。きっと間違いないってマコトは言っていた」
僕はさっきよりもゆっくりと、ノートをめくりなおした。母が冬月教授の元で学んでいたことがあるのは知っていた。
僕がノートを見ている間、シゲルはだまってギターを弾き始めた。はじめにビルスティのワンサイドを弾いて、それからリンキングフェイスのヒルズを小さい声でゆっくりと歌った。シゲルの歌はうまかった。それからギターを置いて、部屋の小さな冷蔵庫からビール缶を二つ持ってきた。
「飲めよ」
とビール缶を僕に渡した。僕はそれを受け取った後で部屋に戻ると告げた。
「はいはい」
シゲルは気に留める様子もなくまたギターを抱えた。
「ありがとう」
部屋を出るときに言うと、シゲルはすこしこちらを見て、ああ。と言った。
 一人きりの部屋で僕はまたノートを開いた。最初のページの日付は八月二十五日だった。その下にはすぐ難しい専門用語が並び、まったく理解できない内容だった。
 僕は母の残した受講ノートを日記でも読むような気持ちでめくっていった。内容が理解できなくても、僕はその内容を頭に叩き込むように読んだ。ほんの少しでも講義内容とは違う、走り書きでもいたずら書きでもないかと探したが、そんな物はどこにもなかった。
 聞こえていたギターの音が止み、夜が更けても僕は読み続けた。途中で喉が渇いたのでビール缶を開けて飲んだ。
 日付は十二月になっていた。一月になるとペンを変えたらしく字が黒から濃い青になった。
 一月二十八日の内容の異変に僕は気がついた。その日の字は乱れていて、講義に集中できなかったらしく、内容も乱雑だった。震える指をこらえてどうにか書き留めた。そんな字だった。
 それからしばらくノートを取らなかったらしく、次の日付は二月十七日だった。字は元のとおりに戻っていた。
 僕は一月二十八日のノートをじっと見つめた。何が起きたのかわからないが、この日の母は確かに何かに動転していた。僕が生まれるずっと前の一月二十八日。
 僕はノートを閉じて、ぬるくなったビールを飲み干した。ノートを机においてベッドに横になった。
 アルコールがまわって、頭がキンと金属音を立てていた。
 一月二十八日という日付が頭の中でぐるぐると回っていた。ほとんど記憶にない母の姿を必死に探ってみたが、引き出されてくるのは無駄な、昼に会ったウエストエリアのマスターのチョッキの襟だとか、夜の富士の姿だとか、去っていった知人の後姿だとか、そんなものばかりだった。
 それから僕はウエストエリアと家を往復するだけの日々を過ごした。シゲルにバンドに入らないかと誘われたが断った。ウエストエリアの客に遊びに誘われたこともあったが、それも全て断った。僕は明け方になるとウエストエリアを出て、部屋に戻り、ノートを開いた。
 店のBGMは様々で、ロックもあればジャズもあった。その日の天気や客層によって、マスターは曲を変える。曲が変わるたびにウエストエリアはライブハウスになったり、静かな紳士の社交場のようにもなった。これはマスターの一種の才能で、入るたびに雰囲気の違う店を楽しみにしている客もおおかった。
 仕事を終えて部屋に戻ると、僕は決まって頭痛に悩まされた。何度も一月二十八日のノートを眺め、何かを得ようとしたが、何も降ってはこなかった。
 僕がいくら考えても何もわからないのだ。という当たり前の結論に達するまでに半年の時間がかかった。

 
 

一万倍 3話

 シャトルバスよりもずっと緩慢な動きでバスは街の中を走った。すぐに席が開いて僕は腰を下ろした。
 暗くなってきたので僕は腕時計を見たが、まだ三時だった。
 三十分ちかくバスに揺られていると、少し不安になってきた。町はすでにビル街を抜けて、住宅街になっていた。
 同じような家がずっと並び、そのうちのいくつかは長く放置されて朽ちようとしていた。
それはここに限ったことでなく、日本でも同じだった。世界の人口が減り続けている今、この光景は世界のどこにでもある。
 バスが誰もいない駅で止まり、運転手が身を乗り出してこちらを振り向いた。
 僕が降ろしたバスはエアブレーキの空気が抜ける音を立てて走り去っていった。
 僕はとりあえず木の下に入って通りを眺めた。濡れそぼって暗く沈んだ通りには誰も歩いていない。
 大半の家の扉には板が打ち付けられているか、だらしなく半開きになっていた。住所のわかりそうなものを探したが、そんなものはまったくなかった。
 途方にくれて空を見上げた。低い雲から細い線を引いて雨粒が降り注いでくる。
僕は、これが僕たちが正体不明の敵から救った世界なんだと思った。 
 イソルデB&Bを探し出した頃には時計は六時を回っていた。あたりはすっかり暗く、夜と同じになっていた。
 階段を上がって玄関のテラスに立った。イソルデB&Bはそこらの民家となんら変わりがなかった。テラスでは犬の置物が首をかしげたままこちらを見ていて、隣には鉢植えが並んでいた。塗装のはげかけた扉の隣に遠慮がちに宿の名前が彫られたプレートが貼り付けてあった。
 ベルを鳴らすと、すぐに扉が開いて女性が顔を出した。五十歳ぐらいの感じの良い女性だった。
「シンジね。遅かったわね。ようこそ」
イソルデは優しく言って僕を中に招き入れた。入るとすぐに右手に階段があった。一階は広いリビングになっていて、暖炉の中にはバケツや移植ゴテが詰め込まれていた。
「さあ、早く。あたたかい飲み物を」
イソルデは僕をテーブルに座らせると、いそいそとキッチンに立った。ホームステイは頼んでいないのにな。と僕は思った。
「あの、B&Bって何でしょうか」
僕が聞くとイソルデはおかしそうに「ブレックファースト&ベッドよ。知らないで頼んだの?」
と笑いながら、テーブルに置いたティーサーバにお湯を注いだ。
「私みたいなさびしい老人が、よくやっているわ。お金と話し相手が欲しくってね」
流暢な英語でいってから、カップに紅茶を注いだ。
僕はかじかんだ指でカップをつかんで紅茶を飲んだ。冷えきった体から力が抜ける。
「シンジはどうしてこの町に来たの?観光?ビジネスには見えないわね」
自分も紅茶を飲みながら、イソルデが聴いた。
「なんとなく、しいて言えば人に会いに」
「恋人かしら」
「そんなんじゃないです。本当はその人がどこにいるのかも分かりません」
イソルデは興味深そうに僕の顔を見た。
 女の人?というので僕はうなづいた。
「あなたは若いから、そういうこともあるわね。王子は姫に会えるものだと、昔から決まっているわ」
それだけ言うと、思い出したように席を立った。
家は古かったが、綺麗に掃除されていて清潔だった。書棚には本が高さと色に合わせて順序良く並んでいる。その上には小さな動物の置物が並んでいた。
イソルデはクッキーの缶を開けてテーブルに置きながら、いつまでドイツにいるのか質問した。決めていない。と答えると
「あなたはナイスガイだけど、少し変わっているわね」
「そうですか?」
「何も決めないでここに来る人はいるけれど、あなたは来たというより、帰ってきたみたい。ずっと探していた故郷に」
僕は何と答えて良いのかわからずに、あまり食べたくないクッキーに手を伸ばした。
「それを食べたら部屋に案内するわ」
二階の半分は吹き抜けになっていて、壁にそって狭い廊下があった。右手に部屋が二つ並び、その奥に少し広めの部屋があった。イソルデはその部屋で寝ているようだった。ここにも動物の置物がいくつか見えた。
「あなたの部屋はここよ」
と手前の階段側の部屋の扉をあけた。壁には窓があったが、隣の家のレンガの壁があって視界はなかった。広さは僕の東京の部屋よりも少し狭いぐらいだった。
「二階のトイレは壊れているから使ってはだめよ。用は地下のトイレでお願い。そこにシャワーもあるわ」
僕は一人になった部屋でベッドに腰を下ろした。小さな机とがある以外には何もない部屋だった。薄黄緑の壁紙は少し日に焼けて褪せていた。
 僕は荷物も開かずに横になって天井を見詰めた。なんだか変なことになったな。と思った。実際には僕がB&Bという言葉を知らなかっただけで、ここはB&Bとしてはとても普通の場所なのだろう。それでも僕はなんだか特別な出来事が身に起きたような気持ちになっていた。
 時計を見ると、七時になっていた。眠るには早かったがすることもなくて目を閉じると、たちまち、僕は眠ってしまった。
 夜中に目を覚ました。雨は止んだらしく雨音がしなかった。時計の針の音もしない。僕は暗闇のなかを手探りで腕時計を探して、スイッチを押した。盤面から青白い光が部屋に広がった。一時二十七分だった。
 僕はゆっくりと起き上がって窓をみた。弱い月の光が隣家の壁との狭い隙間にも差し込んでいた。レンガの継ぎ目がたっぷりと闇を残していて、網の目のようにくっきりと見えた。
 僕は荷物からタオルと着替えを出して慎重に扉を開いた。奥の部屋の扉は閉まっていて、何の気配もしなかった。
 僕はゆっくりと階段を下って一階に下りてから、地下へおりた。
 地下は部屋になっていて、床のリノリウムからひんやりと冷たい空気がした。僕がスイッチを入れると、電球の赤茶色の光が部屋を照らした。
 部屋の隅に机や椅子が積みかさねてあった。子供用の勉強机や弦のないギター、テレビ台にはアルファベットを幾何学模様にしたシステッカーが貼り付けてあった。
きっと僕の寝ている部屋にあったものだろう。
部屋の中央には三人掛けのソファが置いてあり、その正面にはかなり年代物のテレビがあった。テレビの前を通り過ぎるとき、その上に写真立てが伏せてあるのを見つけて、僕はそれを持ち上げた。日を浴びて褪せた写真には今よりもずっと若いイソルデがしゃがんで、男の子と女の子の肩に手を置いていた。
それに寄り添うように男性が右手にゴルフのクラブを杖のようにして立っている。
二人の兄弟は年が近く良く似ていて、無邪気な笑顔をこちらに向けていた。
僕は写真立てを元通りにすると、部屋の奥にあるドアを開いた。プラスチックの白い壁が目に入り、白いシャワーカーテンが見えた。こんな夜更けにシャワーを浴びて大丈夫かと思ったが、聞こえても二階なら大した音にはならないだろうと思って、扉を閉めた。
シャワーを浴びながら、明日からどうしようかと思った。特に行きたいと思うような場所もない。目的らしい目的といえば懐かしい女性に十四年ぶりに会うことだが、あまり気乗りがしなかった。それは僕をここに越させた唯一の理由だったけれど、熱心に探そうと思うほどの力はもっていなかった。
本当に自分はいったい何しに来たのだろう。
シャワーの栓を締めてから、僕は新しいTシャツに着替えて部屋を出た。なんとなくあの写真立てが気になったが、そのことをイソルデにたずねようとは思わなかった。
 一階に上がってから僕はキッチンに立った。キッチンのすぐ横は大きな窓と扉で、庭を耕した小さな畑が見え、その向こうは林だった。人工的な光は一切なかった。
 窓際にたって空を見ると、雲が流れてその隙間から光が差してきていた。
 僕はしばらくそれを見た後で、喉が渇いて蛇口をひねった。コップは蛇口の隣に用意されていたが、使うのが何となくためらわれて手で飲んだ。変なにおいがしてちっともうまくなかったが、二度飲んでから二階へあがった。
 ベッドに座ってぼんやりとしていると、ほんの少しの痛みを伴って頭の中を血が流れる音がした。
 僕はあの女性と別れてから、しばらくの間、こんな風に何の音も気配もしない部屋で過ごした日々を思い出した。