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一万倍 2話

 シャトルバスがビルの間を高速で走りぬけ、ダウンタウンを目指してゆく。
 町には人の姿が溢れていた。スタンドにはお菓子や新聞が並び、ホットドック屋にはケチャップとマヨネーズ、マスタードのチューブが赤白黄の順番で並んでいる。この並びはどの店でも同じだった。
 バスが何の前触れもなく減速して、扉が開いた。何人かの乗客が荷物を持って降りていった。そうしてバスは何事もなかったように走り出す。
 彼女にずっと近づいたのだという実感がわいてきた。
バスは止まっては走ることを繰り返した。客は次第に少なくなってゆき、ついに市庁舎らしい建物の前で止まった。
乗る前に伝えておいた運転手が席から身を乗り出して、出口を指差した。僕は荷物を取ると、バスを降りた。冷たい雨が僕の体を打った。
僕は逃げるように立ち並ぶ店の中からカフェを選んで入った。
 カフェは僕と同じように雨を避けている客でいっぱいで、席はどこも開いていなかった。僕は荷物を抱えたままカウンターへ行き、メニューを指差してコーヒーを注文した。
 窓際の立ち飲みの席に一人だけ入れそうなスペースがあったので、そこで飲むことにした。ミルクや砂糖を取ってくるのを忘れたことに気がついたが、面倒だったのでそのまま飲んだ。
 白亜の青銅の屋根が酸性の雨に溶けて、白亜の壁にいくつもの黒い筋を作っていた。
 目の前の道に大きな水溜りができていて、車が通るたびに歩道に水を撒き散らしている。淀んだ水は波のように引いてもとの水溜りへと還ってゆく。
 灰色の空からは絶えること無く雨がおちてくる。当分やみそうになかった。
 コーヒーを半分ほど飲んでから、僕は荷物を開いた。今、自分がどこにいるか、地図で確かめたいと思った。
(しまった)
僕は地図を忘れてきてしまっていた。地図だけでなく、ガイドブックも東京の部屋に置いてきてしまった。
(あの時だ)
僕は出発前日の夜になかなか寝付けず、荷物から引っ張り出してベッドでなんとなく眺めたまま忘れてしまったのだ。今頃、部屋の枕元で活躍の場を失ったことを嘆いているだろう。
 海外を旅するのに、地図や本を忘れるなんて、自分はなんて間抜けなのだろうと思った。でも自分はそういう人間なのだと思った。僕は目的を果たせなくなるような重大なヘマはしないが、それに付随する大切なことや物にはいつもヘマをやらかす人間なのだ。
 僕は心の中で自嘲しながら、残りのコーヒーを飲んだ。
 上着のポケットから宿の住所が書かれた紙を取り出して眺める。とにかくここにたどり着かないことにはどうしようもない。
 行き方を尋ねる人を探してあたりを見渡した。右側には若い女性の二人組みがいたが、話に夢中で僕に背中を向けていた。
「すみません」
僕は左側でペーパーバックを読んでいた男性に声をかけた。男性は濃い緑色の帯にペンを握った手が描かれている薄っぺらいペーパーバックから目を離してこちらを見た。
「ここに行くにはどうしたらいいでしょうか?」
紙を差し出すと、男性は眼鏡の位置を直しながらそれを手にとった。
「わからないな。僕はこの町は詳しくないんだ」
すまなそうに言ってから、男性は隣にいた老夫婦とドイツ語で何か言葉を交わしたあと、指で僕を指差した。年配の夫婦は僕の姿を見た後、婦人が男性に何か言った。
「バスでいくのかい」
「はい」
「彼らはタクシーを使ったほうが良いと言っているよ」
「なるだけバスがいいんです」
そう告げると男性は夫人に再び何か告げた。黙っていた夫が少し首を振った。
「ここからかなりあるようだよ。この近くならいくらでも部屋の空いている宿がある。シーズンオフだしね」
「もう予約してしまったんです」
話を聞いた婦人がひらひらと手を振って、足元の荷物を取り上げた。店を出るようだった。
 僕は呆れられたのかと思ったが
「バス停まで連れて行ってくれるそうだよ」
と男性が言った。そして僕の前に立った夫婦にむかって、ダンケ。と言った。僕もそれに続いてドイツ語で礼を言った。婦人はにっこりと笑った。
 店を出る前に、僕は彼女の夫が足に障害があるのに気がついた。夫は足を重そうにしてゆっくり歩いた。
 カフェの扉の前にまで来たところで、さっきの男性が近寄ってきて、婦人に何か話しかけた。夫婦は同時に首を振った。
 いいのよ。もう出るところだったから。そんなことを話しているのだろうと思った。不婦人が先にカフェを出て、夫の頭上に傘を差し差す。
 僕は申し訳のないことをしたと後悔して、夫人が提げて紙袋を持った。僕たちは雨の中をゆっくり歩いてバス停へ向かった。
 屋根付きのバス停に入ると、婦人は看板の文字を眺めた後、僕に向かって一列に並んでいる駅名を指差した。僕は夫人が言った駅名を一度声に出して呟き、何度か心の中で繰り返した。
 赤いコートの女性が椅子を立って夫に席を譲った。
 婦人は夫を座らせた後、僕に日本人か?と聞いたので、そうです。と答えた。婦人はうんうんとうなずいた。座っていた夫が早口で何か言ったがさっぱりわからなかった。
 見かねた赤いコートの女性が通訳してくれた。こんど来ることがあったら、夏にしなさい。と夫は言ったのだった。
 しばらく、窮屈な会話が続いたあと、バスがやってきた。婦人はそれを指差して乗るように伝えた。
 僕は買い物袋を夫人に返してから、礼を言ってバスに乗った。
 赤いコートの女性が運転席を覗き込んで、運転手に何か告げた。運転手は面倒そうにうなずいてから扉を閉めた。

 

一万倍 1話

 飛行機の高度を下げながら左翼を傾けると、僕の鼓膜が音を立てて痛みだす。
 機内のアナウンスが英語でまもなくベルリンに到着することを告げ、続いてドイツ語で告げた。
 僕は窓際に頬杖をついて景色を眺めている。空は一面の分厚い雲に覆われていて、地上の景色は何も見えなかった。
 空席の目立つ機内をスチュワーデスが一つ一つ座席に手をかけながら機内を巡回している。
「お客様、シートベルトをお締めください」
唯一の日本人乗務員が身を乗り出すようにして微笑んでいた。何かの拍子で、彼女に僕が始めて 飛行機に乗るのだと話し、墜落したりしないか。と訊いてしまってから彼女は何かと僕に気を使ってくれた。
「何も起こらなかったでしょう?」
 彼女はにっこりと微笑んで、座席のシートベルトを指差した。ハーフらしい亜麻色の髪を赤い髪留めで止めた彼女の姿は、どことなく懐かしい女性の面影の雰囲気を持っていた。
「雨なのが残念です」
「いえ、構いませんよ」
 いってしまってから、僕はまた変なことを言ったと思った。乗務員は「よかった」と真面目に言って、後方の席に移っていった。
 飛行機は一面に広がった灰色の雨雲の海へ身を沈めつつあった。僕は雲の上に懐かしい彼女の顔を描いてみる。
 十四年前の一時期、毎日のように顔を付き合わせたのに、なかなか思い出せなくなっている。美しい少女だったという印象が、長い年月で大きくなりすぎて彼女の顔を覆い隠してしまっていた。
(ドイツは日本よりも一万倍も良いところよ)
彼女が誇らしげにそう呟いていたことを思い出す。
 雲と機体が擦れあう細かい振動が始まると、耳の痛みは大きくなった。
 長いこと体の内側から沸いてくる痛みを忘れていた僕は、その痛みに耐えて、彼女の顔を思い出そうとする。
 ドイツは日本よりも一万倍も良いところよ。僕は彼女が僕にそう言った口調を心の中で真似てみる。
 その言葉を聴いたのは十四歳だったから僕はその時の僕から二倍の時間を生きたことになる。
 今よりもずっと濃密だったあの当時の生活も、今では特別さは薄れて他と変わらない一年の歳月に収まってしまっている。
 飛行機の振動が収まって視界が開けた。眼下には草原が広がっていた。雨に濡れた草原には誰もおらず、雨雲よりも沈んだ色に見えた。その向こうに霧に覆われたビル群のシルエットが見える。
 滑走路を縁取る赤紫のライトが、窓についた水滴でぼんやりと浮かび上がっていた。その脇を作業車がせわしなく行き来している。
 その景色はここが日本よりも一万倍も良いところとは、とうてい思えなかった。
 僕は飛行機の動きが止まってからも、しばらくシートベルも外さずにいた。他の客が荷物を手に足早に出てゆく。
 機内が静かになってから僕は立ち上がった。
 扉の前に客室乗務員が並んでいた。僕の前を歩いていたスーツ姿の白人が彼女たちに手を振った。
 僕が通りかかると、あの乗務員が頭を下げた。
「お気をつけていってらっしゃいませ」
「はい。ありがとう」
 僕は、懐かしい彼女の面影を持った乗務員に微笑んだ。 
十四年前、僕は彼女の首を絞めた。あの時は僕も彼女もおかしかった。世界は確かに僕たち二人きりだった。
 そのうち、世界には少しずつ人Aが返って来て、何もなかったように元の生活を始めた。僕と彼女はしばらく一緒にいたけれど、そのうちに離れ、正確には僕が彼女の前から消えてそれっきりになった。
 十四年で世界は元のとおりになった。町には人が歩き、店には前以上に物がならぶようになった。
 入国手続きを済ませてから、僕は空港のロビーで案内カウンターへ寄った。そこで今日の宿を予約してもらう。対応した小太りの初老の男性は品定めするようにじっと僕を見詰めた後で、カウンターにパンフレットを広げながら、どんな宿が良いか?と聞いた。僕はなるだけ安い宿と答えた。
 男性はB&Bでいいか?と言ったが、僕はB&Bが何か知らなかった。それでいいと答えた。
 男性はパンフレットをしまってから電話を取りドイツ語で何か話した後、英語で
「そう、日本人の男性。名前は碇シンジ。サングラスの似合うナイスガイだ」
とこちらを確認するように目を向けた。
「シンジ、部屋が取れたよ。四ツ星とはいかないが、かわいいパティオで朝食がとれる、ゴージャスなホテルだ」
男性はそういって紙にイゾルデB&Bと書いた。その下に住所と電話番号。
「シャトルバスで終点まで行った後、タクシーに乗るといい。バスが良ければそこで他の人にきいてくれ」
紙を僕に手渡しながら、男性は言った。
「Danke!(ありがとう)」
ドイツ語で言うと、男性は大げさに頭を下げて、ありがとう。と日本語で返した。
 シャトルバスに揺られている間、僕はさっきの言葉があの女性から教わったものだと思い出した。
 次第に密度を増してくる町の景色を見詰めながら、僕は彼女と別れてからの日々を思い出していた。

気持ち悪い。
 彼女の首の感触、そこから僕の流転は始まった。はっと我に返って手を離した。指がガチガチに固まるほど、僕は本気で彼女の首を絞めていた。
 彼女は激しく咳き込みながら、うっ血した目をこちらに向けた。その首には僕の指の後が紫色の痣になってはっきりと残っていた。
「あんたに、殺されなんかしないんだから」
華麗な容姿からは想像もできないカラスのような声だった。そう言ってから、再び激しく咳き込んだ。僕は黙っていた。指の硬直が解けると、今度はがたがたと震え出した。震えはすぐに全身に伝わって、僕は背を向けた。
 彼女は精神の瓦解から立ち直った。不幸にも僕が彼女の首を絞めたせいで。
 今度は僕が首を絞められる番だと思った。そうなったら僕は反抗しないでいようと思っていた。
 だがいくら待っても、彼女は復讐してこなかった。僕は震える体を隠しながら、振り返った。彼女は哀れむような目で僕を見ていた。僕は泣きたくなり、必死に耐えた。けれど涙が溢れてきた。
 どれほどの時間が経ったのか、僕は彼女と二人で歩いていた。
 行き先も目的もなかった。ただ歩くという行為だけが二人を支えていた。幸いなことに道はどこまでも続いてくれた。
 二日の間、僕たちは歩き続けた。その間、僕たちは一言も言葉を交わさなかった。その時にはもう、彼女は失語症になっていたのだろう。
 空腹も疲労も少しも感じなかったが、それは脳が理解していなかっただけで、二人には重い疲労がのしかかっていた。
 刺すような真夏の日差しの中で初めに彼女が倒れた。彼女は倒れたままの姿勢で荒い息をしていた。僕は動物園の動物を見るように、彼女を見下ろしていた。
 苦しそうな彼女の目から涙が溢れてきて、道に小さな染みを作った。それでも僕は彼女に手はおろか、声をかけることもしなかった。そういう気持ちもなかった。そこに見慣れた少女が倒れているというだけで、悲しいとも心配とも思わなかった。
 僕は彼女を置き去りにして歩き出した。気がつくと、彼女は後ろを歩いていた。彼女も置き去りにされたことを恨むような素振りはなかった。
 僕たちは異常だったのだ、一年で起きた出来事の全てに決着をつけるために必要な苦行のようなものだった。
 さらに一日経って、彼女が再び倒れた。彼女は瀕死の犬が這うように日陰に入ると、目を閉じた。もう動けそうになかった。
 僕はまた彼女を置き去りにして歩き出した。もう彼女は追ってこなかった。
 しばらく歩くと、道端の壊れた水道の蛇口から水が垂れていた。僕はその脇に落ちていた缶に水をためて一気に飲み干した。それでは足らずにさび付いた蛇口を石で殴って開き、浴びるようにして水を飲んだ。
 錆びの匂いのする水が僕にかすかな人間らしい心を取り戻させた。僕は缶に水をためると、足を引きずって道を引き返した。
 彼女は置き去りにしたときと同じ格好のまま、木に寄りかかって空を見つめていた。
 目の前に水の入った缶を差し出すと、うつろな目をこちらに向けた。
 彼女は乾ききった老婆のような手を伸ばして缶を受け取ると、ゆっくりとすこしずづ水を飲んだ。
 空になった缶が彼女の指から滑り落ちて、あっけない音を立てた。
 僕は彼女と同じ木に寄りかかって空を見た。焼けた鉄板のような空に、雲がいくつか浮いていた。それを見た途端、僕は眠くなった。
 目が覚めたのは早朝だった。隣をみると彼女も眠っていた。わずかに触れ合った足から彼女の体温が伝わってきた。
 僕は少しも疲れの取れていない体で立ち上がって彼女を見下ろした。こんどは動物園の動物を見るような気持ちにはならなかった。少しは僕の中で処理が進んでいた証拠かもしれなかった。
 彼女は眠っていた。顔は汚れてやつれきっていたが、頭に輪が浮いていても不思議がないぐらい、美しい寝顔だった。
 彼女が目を覚まして、目の前に立っている僕の存在に気がついた。彼女は澄み切った目で僕を見た。僕は行くよ。そう言おうとしたが言葉がでなかった。
 けれど彼女はうなずいた。そう見えただけかもしれなかったが、僕はそれを了承の合図と受け取って歩き出した。
 それっきり。