シャトルバスよりもずっと緩慢な動きでバスは街の中を走った。すぐに席が開いて僕は腰を下ろした。
暗くなってきたので僕は腕時計を見たが、まだ三時だった。
三十分ちかくバスに揺られていると、少し不安になってきた。町はすでにビル街を抜けて、住宅街になっていた。
同じような家がずっと並び、そのうちのいくつかは長く放置されて朽ちようとしていた。
それはここに限ったことでなく、日本でも同じだった。世界の人口が減り続けている今、この光景は世界のどこにでもある。
バスが誰もいない駅で止まり、運転手が身を乗り出してこちらを振り向いた。
僕が降ろしたバスはエアブレーキの空気が抜ける音を立てて走り去っていった。
僕はとりあえず木の下に入って通りを眺めた。濡れそぼって暗く沈んだ通りには誰も歩いていない。
大半の家の扉には板が打ち付けられているか、だらしなく半開きになっていた。住所のわかりそうなものを探したが、そんなものはまったくなかった。
途方にくれて空を見上げた。低い雲から細い線を引いて雨粒が降り注いでくる。
僕は、これが僕たちが正体不明の敵から救った世界なんだと思った。
イソルデB&Bを探し出した頃には時計は六時を回っていた。あたりはすっかり暗く、夜と同じになっていた。
階段を上がって玄関のテラスに立った。イソルデB&Bはそこらの民家となんら変わりがなかった。テラスでは犬の置物が首をかしげたままこちらを見ていて、隣には鉢植えが並んでいた。塗装のはげかけた扉の隣に遠慮がちに宿の名前が彫られたプレートが貼り付けてあった。
ベルを鳴らすと、すぐに扉が開いて女性が顔を出した。五十歳ぐらいの感じの良い女性だった。
「シンジね。遅かったわね。ようこそ」
イソルデは優しく言って僕を中に招き入れた。入るとすぐに右手に階段があった。一階は広いリビングになっていて、暖炉の中にはバケツや移植ゴテが詰め込まれていた。
「さあ、早く。あたたかい飲み物を」
イソルデは僕をテーブルに座らせると、いそいそとキッチンに立った。ホームステイは頼んでいないのにな。と僕は思った。
「あの、B&Bって何でしょうか」
僕が聞くとイソルデはおかしそうに「ブレックファースト&ベッドよ。知らないで頼んだの?」
と笑いながら、テーブルに置いたティーサーバにお湯を注いだ。
「私みたいなさびしい老人が、よくやっているわ。お金と話し相手が欲しくってね」
流暢な英語でいってから、カップに紅茶を注いだ。
僕はかじかんだ指でカップをつかんで紅茶を飲んだ。冷えきった体から力が抜ける。
「シンジはどうしてこの町に来たの?観光?ビジネスには見えないわね」
自分も紅茶を飲みながら、イソルデが聴いた。
「なんとなく、しいて言えば人に会いに」
「恋人かしら」
「そんなんじゃないです。本当はその人がどこにいるのかも分かりません」
イソルデは興味深そうに僕の顔を見た。
女の人?というので僕はうなづいた。
「あなたは若いから、そういうこともあるわね。王子は姫に会えるものだと、昔から決まっているわ」
それだけ言うと、思い出したように席を立った。
家は古かったが、綺麗に掃除されていて清潔だった。書棚には本が高さと色に合わせて順序良く並んでいる。その上には小さな動物の置物が並んでいた。
イソルデはクッキーの缶を開けてテーブルに置きながら、いつまでドイツにいるのか質問した。決めていない。と答えると
「あなたはナイスガイだけど、少し変わっているわね」
「そうですか?」
「何も決めないでここに来る人はいるけれど、あなたは来たというより、帰ってきたみたい。ずっと探していた故郷に」
僕は何と答えて良いのかわからずに、あまり食べたくないクッキーに手を伸ばした。
「それを食べたら部屋に案内するわ」
二階の半分は吹き抜けになっていて、壁にそって狭い廊下があった。右手に部屋が二つ並び、その奥に少し広めの部屋があった。イソルデはその部屋で寝ているようだった。ここにも動物の置物がいくつか見えた。
「あなたの部屋はここよ」
と手前の階段側の部屋の扉をあけた。壁には窓があったが、隣の家のレンガの壁があって視界はなかった。広さは僕の東京の部屋よりも少し狭いぐらいだった。
「二階のトイレは壊れているから使ってはだめよ。用は地下のトイレでお願い。そこにシャワーもあるわ」
僕は一人になった部屋でベッドに腰を下ろした。小さな机とがある以外には何もない部屋だった。薄黄緑の壁紙は少し日に焼けて褪せていた。
僕は荷物も開かずに横になって天井を見詰めた。なんだか変なことになったな。と思った。実際には僕がB&Bという言葉を知らなかっただけで、ここはB&Bとしてはとても普通の場所なのだろう。それでも僕はなんだか特別な出来事が身に起きたような気持ちになっていた。
時計を見ると、七時になっていた。眠るには早かったがすることもなくて目を閉じると、たちまち、僕は眠ってしまった。
夜中に目を覚ました。雨は止んだらしく雨音がしなかった。時計の針の音もしない。僕は暗闇のなかを手探りで腕時計を探して、スイッチを押した。盤面から青白い光が部屋に広がった。一時二十七分だった。
僕はゆっくりと起き上がって窓をみた。弱い月の光が隣家の壁との狭い隙間にも差し込んでいた。レンガの継ぎ目がたっぷりと闇を残していて、網の目のようにくっきりと見えた。
僕は荷物からタオルと着替えを出して慎重に扉を開いた。奥の部屋の扉は閉まっていて、何の気配もしなかった。
僕はゆっくりと階段を下って一階に下りてから、地下へおりた。
地下は部屋になっていて、床のリノリウムからひんやりと冷たい空気がした。僕がスイッチを入れると、電球の赤茶色の光が部屋を照らした。
部屋の隅に机や椅子が積みかさねてあった。子供用の勉強机や弦のないギター、テレビ台にはアルファベットを幾何学模様にしたシステッカーが貼り付けてあった。
きっと僕の寝ている部屋にあったものだろう。
部屋の中央には三人掛けのソファが置いてあり、その正面にはかなり年代物のテレビがあった。テレビの前を通り過ぎるとき、その上に写真立てが伏せてあるのを見つけて、僕はそれを持ち上げた。日を浴びて褪せた写真には今よりもずっと若いイソルデがしゃがんで、男の子と女の子の肩に手を置いていた。
それに寄り添うように男性が右手にゴルフのクラブを杖のようにして立っている。
二人の兄弟は年が近く良く似ていて、無邪気な笑顔をこちらに向けていた。
僕は写真立てを元通りにすると、部屋の奥にあるドアを開いた。プラスチックの白い壁が目に入り、白いシャワーカーテンが見えた。こんな夜更けにシャワーを浴びて大丈夫かと思ったが、聞こえても二階なら大した音にはならないだろうと思って、扉を閉めた。
シャワーを浴びながら、明日からどうしようかと思った。特に行きたいと思うような場所もない。目的らしい目的といえば懐かしい女性に十四年ぶりに会うことだが、あまり気乗りがしなかった。それは僕をここに越させた唯一の理由だったけれど、熱心に探そうと思うほどの力はもっていなかった。
本当に自分はいったい何しに来たのだろう。
シャワーの栓を締めてから、僕は新しいTシャツに着替えて部屋を出た。なんとなくあの写真立てが気になったが、そのことをイソルデにたずねようとは思わなかった。
一階に上がってから僕はキッチンに立った。キッチンのすぐ横は大きな窓と扉で、庭を耕した小さな畑が見え、その向こうは林だった。人工的な光は一切なかった。
窓際にたって空を見ると、雲が流れてその隙間から光が差してきていた。
僕はしばらくそれを見た後で、喉が渇いて蛇口をひねった。コップは蛇口の隣に用意されていたが、使うのが何となくためらわれて手で飲んだ。変なにおいがしてちっともうまくなかったが、二度飲んでから二階へあがった。
ベッドに座ってぼんやりとしていると、ほんの少しの痛みを伴って頭の中を血が流れる音がした。
僕はあの女性と別れてから、しばらくの間、こんな風に何の音も気配もしない部屋で過ごした日々を思い出した。