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一万倍 7話

 ウエストエリアと部屋とを往復し、母のノートを広げるだけの日々を抜け出すのに半年かかった。
 抜け出すきっかけをくれたのは尾藤ユリという、家に同居している住人の一人だった。
 彼女は夜の街で占い師をしていた。明け方になるとウエストエリアから戻ってくる僕とよく顔を合わせることになった。
「シンジ君。お疲れさま」
明け方の薄闇の中でそう声をかける彼女の顔は、いつも疲れきっていて、とても老けて見えた。年はそのとき二十七歳だったが、年齢よりも老けて見えた。
「夜の街で人の不幸話を聞いて、同情するフリをするのも結構疲れるのよ」
ユリは決まって家の門の前にいる猫の背中をさすってやりながら、帰宅途中に買ってきた餌をその猫にあげていた。
「占いは全部適当なんですか」
僕は彼女と会ったときは塀にもたれて、猫が餌を食べ終えるまで待った。
「そんなことはないわよ。これでも結構、当たるんだから」
ユリは厚い化粧をしていて、眉を細く剃っていた。明け方の崩れた化粧を見ると、水商売の女にしか見えなかった。
「私はね、恋愛とかはあんまり得意じゃないのよ」
隅々まで皿を舐める猫の顎下を撫でながら、ユイは眠そうにあくびをした。そんな時のユリはとても薄幸そうに見える。
「何が得意なんです?」
「人の死だったら、一発ね。すぐに分かるの。ああ、この人は死ぬなって」
「当たって欲しくないですね」
「さすがに、お客さんにいきなり『あなたはそのうち死にます』とは言わないわよ」
「じゃあ、僕はどうですか?死にますか?」
そういうと、ユリはひざに手を置いて立ち上がった。酒とか煙草とか、夜の雑踏の匂いがした。
「死なないわねえ、当分」
「そうですか」
僕たちは家に入ると、それぞれの部屋に戻る。そのうち、ユリが部屋を出て風呂にゆく音が聞こえる。
 年長者が先に風呂を使う。という規則のために、僕は彼女があがるまで待たなければならなかった。
「おまたせ。どうぞ」
頭にタオルを巻いたユリが僕の部屋を覗いて言った。化粧を落としたユリの顔は、眉毛が半分しかなく、安い化粧品で肌がいつも荒れていた。こうなると老けていた顔が年齢不詳になってしまうのだった。
 いつもはそのまま部屋に戻るユリがその日はじっと僕の顔を見ていた。
「なんですか?」
「あなた、今の生活でいいの?」
「どういう意味です?」
僕は少しむっとして言った。
「学校にも行かず、仕事場と家を往復するだけの生活よ」
「僕はそれでいいと思ってます」
「そう、下らない人生ね」
僕は思わず立ち上がっていた。ユリは脱いだ服を持ったまま僕に挑みかかるような目をしていた。なぜ急にユリがこんなことを言い始めたのか、僕にはさっぱりわからなかった。
「そういう自分はどうなんです?」
「私には夢中になれるものがあるわ。人から見ればくだらない占いでしょうけどね」
その時、ユリはとても悲しい顔をしていた。
「眼をそむけて、逃げる事だけしている人は死んでいると同じよ」
「僕は生きてる。ちゃんと生きています」
僕は必死になって答えた。握り締めた手が震えていた。ユリはしばらく僕の様子を悲しそうな目で見たあと、部屋へと戻っていた。
 その翌日、ユリは行方不明になった。いつものように夜の町へ占いに出て、そのままいつになっても戻ってこなかった。
 同居人が相談して警察に届け出たが、半年経ってもユリの消息はつかめなかった。
「あの女は少し頭がどうかしてたからな」
シゲルはユリの部屋で、占いの本を段ボール箱に放り込みながらそう言った。
「占い師が好きな奇特な男にでも誘われたのかもしれないな」
僕は主のいなくなった部屋で遺族に送るものと捨てる物の区別をした。もともと物のない部屋だったが、それでも部屋中のものを分別するとなるとかなりの手間だった。
「あの夜、ユリはこの家の近くまで来ていたそうだよ。警察が教えてくれた」
シゲルはクローゼットを開けて、そこにかけてあったユリの服を箱に投げ込み始めた。
「近くの公園でただ突っ立っていたらしい」
化粧の崩れた顔で、公園に佇むユリの様子が浮かんできた。
「ここまで帰ってきたんですか」
「ああ、公園からここまで五分とかからないから、殺されたり拉致された可能性は低いって言ってたよ」
埃の舞う部屋の中で、僕は机の上のカレンダーを手にとった。僕はユリが行方不明になる前日の日付を見た。予定の書き込めるカレンダーだったけれど、何一つ書き込みはしていなかった。
 行方不明になる前日、ユリはなぜ急にあんなことを言ったのだろう。僕の生活を逃げているだけの人生。そう言ったときの、悲しい顔がありありと浮かんでくる。
 公園からこの家に来るまでの短い間に、ユリに何かが起こった。僕は彼女に起こった変化を想像してみたけれど、何一つ思い浮かばなかった。
「写真だ」
シゲルの声で僕はわれに返った。
「誰だろうな。弟かな」
手渡された写真には川が写っていて、弓なりの橋が架かっている。その上を観光客らしい人が歩いていた。
 橋の前では小学生たちが引率の教師の周りを取り囲んでいる。手前には坊主頭の少年がまぶしそうにこちらを見ていた。
「これ一枚ですか?」
「俺にはあの女が写真を持っていたことも意外だけどね」
「誰なんでしょう」
「知るかよ。よせよせ、考えたったってどうしようもないよ」
シゲルは僕の手から写真をひったくると、箱に入れて、その上にヨレヨレの下着を積み重ねた。
(逃げたのは、自分の方じゃないか)
荷物を遺族へ送った後、僕はじっと考えた。
何にも夢中になれない人生。悔しいけれど、それは当たっていた。
自分の身を焦がすような、焼けるような心。僕はそれをあの時、捨ててきてしまったのだ。
 もしかすると、ユリは占いよりも夢中になれるものを見つけたのかもしれないと思った。 すると、これまでユリが逃げ出したとばかり思っていた心が急に高鳴った。 
 それから僕はウエストエリアのマスターに頼んでまとまった休みを貰い、京都へ行くことにした。すこし旅をして冬月教授の墓参りをしようと思った。
 品川から新東海道線に乗って、海面の上昇で海に沈んだ町を眺めながら、北横浜の駅でバスに乗り換える。
 ここから箱根を越えて沼津にいたるまでは、先の戦火のために破壊し尽くされて電車は走っていない。僕は隕石が落ちた後のようなクレーターや、見る影もなく破壊されたビルや工場を見るたびに胸が痛んだ。
 新小田原から沼津にいたる国道一号線は、芦ノ湖周辺が立ち入り禁止となっているために通ることができず、バスは海岸沿いの道を走る。
 箱根の山並みの向こうに、僕が暮らした施設があるのだと思うと、僕は死んでいった人たちが僕をそこに引きずり込もうとしているような気がした。
 拷問のようなバスのたびを終えて、沼津から新幹線に乗ると、京都はあっという間であった。


 
 

一万倍 6話

 僕は夢を見た。
 あの芦ノ湖畔の町。あらゆるものが科学の力で制御され、監視されていた町。僕はその地下深くにあった施設の一室にいる。
 目の前のソファには葛城ミサトと加持リョウジの二人が座っていた。赤木リツコがこちらに背を向けてパソコンのキーボードを叩いている。その脇にはシゲルが立っていて、モニターを覗き込んでいる。二人の煙草の煙が部屋に澱んでいた。
 僕の隣にはクラスメイトの綾波レイが座っていて、彼女は無表情の顔をミサトとリョウシの二人に向けている。
 十四年間、一度も綾波の夢を見たことなかったのに。僕は夢の中でそう思った。久しぶりに見た綾波の顔は、あの頃とまったく変わりのない、僕が恋した姿のままそこにいた。
 僕は綾波がこちらを見てくれることを期待して、その横顔をじっと見つめたが、綾波はそのまなざしを対面している二人にじっと見据えたまま、こちらを振り向こうとはしなかった。
 部屋の扉が開いて、僕はそちらを見た。そこにはアスカが立っていた。けれどアスカの姿はよく見えず、亜麻色の髪がその存在をアスカと教えてくれるだけで、顔はぼやけてしまっている。
(私だけ、おいてけぼり?)
アスカははっきりとわかる声でそう言った。
(ちがうんだよ)
僕はソファに座ったまま、消えてしまいそうな存在を失わないように目を凝らす。
(何が違うのよ。バカ)
悲しんでいるのか、怒っているのかもわからない声でアスカは呟いた。
 世界はグニャリと歪んで、現実に引き戻された僕の目に、味気ないクリーム色の天井が映った。 
「家中がお酒臭くて困ったわ」
「すみません」
「よく帰って来られたわね。その辺に寝て凍死でもしたら大変よ。毎年そうやってたくさんの人が死ぬのよ」
「はい」
昨日と同じメニューの朝食を食べながら、僕はまだぼんやりと昨夜の夢を思い返していた。
 イソルデは昨日とまったく同じように、好きな食べ物は何か、富士山には登ったことはあるか、自分の口元にあるほくろはチョコレートでもくっついてるように見えないか。そんなどうでも良い質問をいつまでも続けた。
 僕が二杯目のコーヒーを飲み終えて席を立つと、イソルデは口元のほくろを指で触りながら
「もう、この町をでるつもり?」
と恋人を引き止めるように言った。
「もう一泊させてください。明日、出ようと思います」
明日からの予定に何があるわけでもないのに、僕はそう答えていた。
「洗濯をさせてもらえませんか?」
「もちろんよ。洗濯機の場所は分かるわね?」
「ええ」
洗濯物を抱えて地下へ降りてから、シャーワー室のとなりの扉をあけると、薄暗い部屋に古ぼけた洗濯機がぽつんとあった。
洗濯機の蓋を開けて洗濯物を押し込んでから、スイッチを押しても何の洗濯機は何の反応もしない。あれこれ調べているうちにホースでつながっている水道の蛇口が閉まっていることに気が付いた。
蛇口とホースを接続する金具にはビニールテープがぐるぐる巻きにされていて、僕が何気なくそれを触ると、ビニールの間から水が噴出した。あわてて蛇口を閉めてから、テープの隙間を塞ごうとしたが、これまでどうして水が漏れなかったのか不思議なくらい、どうやっても水が噴き出すのだった。
僕は一階に登るとイソルデはキッチンの扉から外へ出て、小さな庭でこちらに背を向けてしゃがんでいた。
その背中は小さくて少女のようだった。扉を開いて声をかけると、イソルデは移植ゴテを持ったまま立ち上がってこちらを向いた。
「あら、そう。それは困ったわね」
あまり困ったようには見えない顔で、イソルデはまぶしそうにこちらを見た。
移植ゴテを庭の隅に置いて、四段しかない階段をゆっくりと上がってきた。うす曇りの空を通してきた光が、彼女の横顔を照らしている。
 それまで気にしなかった口元のほくろが、どうしようもなく目につくようになると、その顔は急に老けてしまったように見えた。
 テープを何度捲き直しても水漏れは直らなかった。僕はイソルデの手から半分錆びた金具を取り上げた。
「きっと、もともとカタチが合っていなかったんですよ」
「そういえば、主人もそういってたわね。それは主人が買ってきたのよ」
僕はテレビの上に伏せられていた写真立てを思い出した。
「これは明日までには直しておくから、シンジは外出してらっしゃい」
「いいんですよ。どうせ予定はないし」
「あなたはお客さんよ。そんな事はしなくていいのよ」
イソルデはやさしく微笑みながら言った。僕は階段を登るときになって、ヘルガとの約束を思い出した。用意を済ませて降りると、イソルデはさっきと同じ場所にうずくまっていた。
 僕は声をかけようか悩んだ後、諦めて家を出た。

 昨日と打って変わって、公園に人は少なかった。ああ、今日は平日なんだと僕は思いながら、昨日と同じベンチに座った。昨日は美しく輝いていた川面は曇天が映って灰色になっていた。
 そこで僕は昨日ここで考えたのと同じ事をまた考えていた。人生からすればほんの短い十四歳の一時期を過ごした施設のこと、それからの東京でのシゲルとの共同生活。日々の生活の根底にいつでもしこりのようにあった死者への憧憬。
「シンジ、遅れてゴメンね」
薄青のコートを着たヘルガが隣に座った。彼女は深緑の長いマフラーを巻いていた。その横顔には昨日、時々見せた少女っぽさは無く、美しい大人の顔になっていた。うっすらとした化粧のせいだと僕は思った。
「少し用事があって遅れたの」
「なんとも思ってないよ。女性は遅れてくるものだと思ってるから」
「世の中の全ての女性を挑発する発言ね。そういうことを言えるのもシンジが女遊びをしてきたからよ」
「僕は女遊びなんてしてないよ」
「きっと、あなたはそう思ってなくても、相手はそう思うわ」
イソルデはいたずらっぽく言ってから、僕の手を握った。
「行きましょう」
「どこに」
「大学よ。すぐ近くなの」
「大丈夫かな。生徒でもない僕が入ったりして」
「平気よ。シンジは若く見えるから」
「そういう問題じゃなくて」
ヘルガは美しい顔を僕に向けてふふ。っと笑った。
 僕たちは並木道を通って、レンガ造りの塀に囲まれた大学へと入った。バッグを背負った若者たちが談笑しながら僕たちの横を通り過ぎた。
 ニキビ面の長身の青年が遠慮もせずに僕をいぶかしげに見ていた。
 エルガは僕の手を握ったままキャンパスを歩いて、新しい校舎の中へ入った。生徒がまばらに入った講義室をいくつか過ぎて、大きなカフェの扉をあけた。そこは授業を待つ生徒たちで込み合っていて、コーヒーと甘い匂いがした。
「私は次の授業があるの。ここで待っていて」
「ここに一人で?」
「そうよ。大丈夫でしょ。あなた待つのが得意そうだから」
ヘルガは顔の横に挙げた手を振ってから足早に出て行った。
 僕はテーブルに座って居心地悪く時間を過ごした。時々、僕に興味を持った生徒が近づいてきて、彼らと雑談を交わした。
 ヘルガは手に封筒を抱えて戻ってくると、僕の目の前に座った。その顔をみると僕はほっとした。
「これからどうするの?」
僕は封筒をバッグの中に入れているヘルガに訊いた。
「今日はクラブに行こう」
「クラブ?嫌だよ」
「そういうと思ったの。だから連れて行くのよ」
ヘルガは楽しそうに席を立とうとした。
 その時、扉が大きな音を立てて開き、三人の男たちが入ってきた。彼らはスナックとジュースの自動販売機の前を通り過ぎて、テーブルが並んだ場所の前に整列して立つと、激しい剣幕で何かをわめき出した。
「ね、なんて言ってるの?」
「この世界はもう終わりだって、こんな世界は滅んだほうがいいって」
ヘルガは目を細めて汚いものでも見るように彼らを見た。
やけに大きい鼻の男が大声でわめき散らす隣で、豚のように太った男がドイツ語で書かれた紙を広げている。
見るからに陰鬱そうな不細工な顔の男がテーブルの一つ一つを回って、席に着いた学生の前にビラを置いてゆく。僕たちの前にもビラが置かれた。僕がそれを手にしようとすると
「やめて」
と強く言ったので、僕は手を引っ込めた。
「ね、なんて言ってるの?」
「くだらないことよ」
「もっと具体的に」
「シンジ、こういうことに興味があるの?」
ヘルガがじっと僕を見た。僕は首を振った。
「別にないよ。珍しいからさ」
「そうね。日本にはあまりいないわね。ああいう人たち」
ふっと息を付いて、ヘルガは左手差し指にはめているシルバーの指輪をいじった。
「この世界は本当ならセカンドインパクトで滅ぶ運命だった。幸いにもこの世界は残ったけれど、君たちの生活はそれ以前と何も変わらない。何も学習できない人間が大学で勉強する価値もない。それよりも人間はより完璧を目指して高い理想のために活動するべきだって」
誰一人、ビラを手にしている生徒はおらず、わめき続ける男の声を聞く様子もない。
 さんざんわめき散らした後、彼らは軍隊のようにしっかりと整列して、部屋を出て行った。
「さあ、行きましょう」
ヘルガに促されて僕は立った。僕の飲んだコーヒーの空き缶と、あのビラをテーブルから取り上げたヘルガは何種類もの色で分けられたゴミ箱の青い箱に缶を入れ、黄色い箱へ握りつぶしたビラを放り込んだ。
「資源の無駄遣いだわ」
ヘルガは無表情で言った。僕はとっさに思いついたことをヘルガに頼むことにした。
「買い物をしたいんだけど、手伝ってくれないかな」
「何かしら」
「洗濯機の部品」
ヘルガはあっけに取られた目で僕を見てから、だいたい察したらしく優しく微笑んだ。
「ええ、いいわ」
僕たちはバスに乗って繁華街に出てから、雑貨屋に行って洗濯機の部品を探した。ヘルガが店員を呼んで、あれこれ話を聞いてくれた。
 部品を買ったあとで店をでると、ドイツに来てから一番冷たい風が吹き抜けた。
「今日は雪になるね」
ヘルガは灰色の濃さを増した空を見上げた。
 僕たちはバーで少し飲んだ後、クラブへと入った。地下へ続く狭い階段を下りていくと、狭い壁に跳ね返ったダンスミュージックが聞こえてきた。
 薄暗いクラブの中は人で埋まっていた。赤や白のライトが絡み合いながら、ホールで踊る人たちの頭上を走り回っている。
「今は、古い曲のリバイバルが流行っているのよ」
ヘルガは僕の耳元に口を寄せて言った。彼女の髪から女の匂いがした。僕はアスカの髪からも同じような匂いがしていたのを思い出した。
僕たちはカウンターでビールを買ってから壁際に寄って乾杯した。
 エルヴィス・プレスリーやビートルズやエミネムの曲をダンス用にアレンジした曲が続き、皆たのしそうに体を揺らして踊っている。僕はふと、大学で見た三人組はこういう場所に来たことがあるのだろうかと思った。
 ビールを空にしてしまうと、ヘルガは僕の手を引いて、人を掻き分けてホールの中に入っていく。
「無理だよ。踊ったことなんてないよ」
「大丈夫よ。みんなただ体を揺らしているだけだから」
ヘルガは酔いの回った目で僕を見ると、体を揺らし始めた。僕も周囲を気にしながら見よう見まねで踊った。
「そう、そう、揺れるだけでいいのよ」
ヘルガは両肘を左右に張って、腰を動かす。僕が同じようにすると、おかしそうに笑った。
「あなたが一番うまいわ」
「もっとうまい人はたくさんいるよ」
人ごみの中に小さな空間がいくつかあって、そこでは必ず誰かがダンスらしいダンスを踊っている。
「あれはね、さくらなの。客のフリをした従業員なのよ」
「本当?」
「本当よ。だって私もやってたもの」
「どうりでうまいわけだ」
「シンジにわかるの?」
「わかるよ」
ヘルガは心底うれしそうに笑って両手を僕の首に回すと、そのまま頬に唇を寄せた。
「こんなところで、やめてくれよ」
何もなかったように手を離したヘルガはまた踊り出した。そうして時々、思い出したように僕の首に手を回して頬にキスをした。
 音の洪水から逃げ出して、僕らは町を歩いた。粒の小さい雪が道にうっすらと積もっていた。僕はヘルガにつれられるままに橋の上まで来て立ち止まった。
 川には両岸に並ぶビルに設置された広告の鮮やかなネオンが映ってゆれている。橋には車も人もほとんど通らず、町の音は広い川の空間にさえぎられて静かだった。
「今夜で宿を出るって決めたんだ」
「そう、私の部屋にきてもいいのよ。朝食とベッドは確保してあげるわ」
僕たちは欄干に手をかけて並んで、ネオンが落ちている箇所意外は底の見えない川を見つめていた。
「嬉しいけど、ベルリンを出ようと思うんだ」
「ポツダムにいくの?」
「まだわからない」
僕たちの背後を雪を散らす車輪の音がいくつか通り過ぎていった。
 ヘルガはバッグを開くと、昼間の封筒を僕に差し出した。
「大学の社会福祉課へ行って調べてきたの。ポツダムにある保養所の名前と住所」
僕は少しためらったあとで封筒を受け取った。ヘルガは川のほうへ向き直った。
「あなたはポツダムに行くべきよ。よく分からないけど、その人に会って決着をつけるべきね」
僕は寒さとアルコールで頬を赤くしたヘルガの横顔をじっと見た。
「ちゃんと別れるべきよ。お互いに未練があるままだと不幸になるよ」
僕は黙っていた。彼女の首を絞めた感触が指によみがえってくるような気がして、僕は氷のように冷たい欄干を握った。
「ありがとう」
「どういたしまして。ちゃんと別れたら、ベルリンに戻ってきたら、連絡ちょうだいね」
僕はそれには答えずに黙っていた。雪が粒の大きさをまして降ってきた。
「君は、ヘルガはこの世界が好きかな?」
「昼間の大学で見た人たちが言ってたこと?」
「いや、そうじゃなくて、ただ、この世界が好きかな。と思って」
「好きよ。友達とのお喋りも楽しいし、家族との旅行も、ゴミの分別も楽しい。そりゃたまには世界が消し飛んでしまえばいい。と思うことはあるけどね」
「そう、良かった」
「まるでこの世界を創った神様みたいな言い方ね」
ヘルガは僕の方へ体を向けると、体を寄せて眼を閉じた。僕はためらわずにキスをした。
「もう帰って、タクシーでいいでしょ?」
僕はタクシーに乗り込んでから、ヘルガに手を振った。ヘルガは降りしきる雪の中で手を振って応えた。
 タクシーが雪まみれの町を走り抜ける間、僕はヘルガがくれた封筒に印刷された大学の校章をずっと眺めていた。
 窓の外に目を向けると、窓に付いた雪のせいで何も見えなかった。
宿に着くと、一階でイソルデが寝ずに待っていた。ヘルガはキッチンのテーブルに座ったまま、何をするわけでもなくただ外を見つめていた。
 僕の存在に気が付くと、にっこりと笑った。
「洗濯機を直しておいたから、今のうちに洗濯を済ませたほうがいいわね。これを使えば朝には乾くはずよ」
そう言って足元の除湿機をつま先で軽くつついた。
 僕は部品を持って洗濯室へ入った。イソルデは入り口でじっと僕の作業を見つめている。
 蛇口とホースの接続部分は真新しいテープでしっかりと固定されていた。僕はなんとなく剥がしてしまうのがためらわれた。
「はがしてもいいですか」
「もちろんよ」
僕はテープをはがしてから、買ってきた金具を取り付けて蛇口をひねった。
「これで修理完了ですよ」
「シンジは頼りになるわね。私がもっと若かったら、間違いなくほっておかなかったわ」
「旦那さんが聞いたら怒りますね」
「いいのよ。彼はもう戻ってこないから。私が何を言っても彼が聞くことはないわ」
「死んでしまったのですか?」
イソルデは首を振った。
「戻ってこなかったの。ねえ、たまにはおばあちゃんの愚痴を聞いてみる気はある?」
「いいですよ」
「じゃあ、上に行きましょう。あったかいスープをご馳走すわ。今日はたくさん作ったのよ」
僕たちは向かい合って席についた。マグカップからいい匂いが立ち上ってきた。僕は何度かにわけてそれを口に運んだ。コンソメの味がきいたおいしいスープだった。
「たくさんあるから何杯でもどうぞ」
「ありがとうございます」
「ええと、どこまで話したかしら」
「お主人がもどらなかったって」
「そうね。彼は戻ってこなかったの」
イソルデは視線をテーブルのマグカップに据えたまま、呟くように話した。
「私たちは幼馴染だったの。私たちの家は貧しくてね。崩れずに残っているのが奇跡みたいな建物にいくつかの家族と一緒に住んでいたの。両親と私と弟と、おじいさんの五人家族だったわ。治安の悪いところでね。しょっちゅう強盗や殺人事件がおきるような場所だった。父はあまり体が丈夫でなかったし、おじいさんはそこに住み始めてからボケてしまって、少しでも目を離すと外をほっつき歩くから、家族はとても苦労したわね。
 でもやっぱりちょっと目を離した隙に家を出て、強盗に殺されてしまったのよ。お金なんて何も持っていなかったのにね。強盗もがっかりしたでしょうね。それで、おじいさんが殺されたすぐ後に、あの人が引っ越してきたの。母親はすでに亡くなっていて、父親と二人きりだった。私はすぐ彼のことが好きになったわ。映画に出てくる子役みたいに顔の整った人でね。
 私の周りはライバルだらけだった。彼は私を好きといってくれたけど、自分の顔がそれほど良くないって知っていたから、毎日、はらはらしていたわね。なんとか彼と結ばれようと努力したわ。そのための努力も惜しまなかった。料理も編み物も学校の勉強よりもずっとがんばった。やっとの思いで結婚できたときは幸せだったわ。あんなに幸せだったことはあれから一度もない。彼はそこそこ良い会社に勤めて、生活も安定してきて、そして子供が生まれたわ。男の子と二つ違いの女の子。やっぱりあの頃が一番幸せだったわ」
イソルデはそこまで話すと、湯気の少なくなったスープを飲んだ。飲むというよりも渇いた口を濡らすぐらいの量だった。
「あなたも南極の氷が解ける事件があったことは知っているわよね。あなたが生まれる少し前ぐらいじゃないかしら」
「僕の生まれた年です」
「そう、不幸な年に生まれたのね」
南極の氷が解けた。それを聞くと僕の胸はいつも何かに鷲?みにされたように高鳴る。
「その天変地異でたくさんの人が死んだわ。本当に数え切れないぐらいの人が死んだ。それからの生活は本当に苦しかった。あの頃はみんな悪魔のようになっていたわね。友人や親戚、夫婦同士がパンのために殺しあう事件もたくさんあった。自分の命を守るためなら何でもする時代だった。
私たちも暴徒や食糧難から逃げ回って、必死に生きたわ。それでも私たち夫婦はお互いに見捨てたりせずに、協力してなんとか生きのびたの。私と彼の親類もたくさん死んだ。ああいうのを地獄って言うのね。
 幸いにも私の家族は誰も死なずに済んだわ。そのうちに世界も安定してきて、元の生活を取り戻してきたの。ああ、よかった。これで元の幸せな生活に戻れる。そう思っていたわ」
聞きながら、僕の手はぶるぶると震えた。僕はひざの上に手を置いて震えを必死で隠した。
 イソルデはそれには気が付かずに、時々、言葉をつまらせてはスープを口に含んでから話し始める。僕の脳裏に死んでいった人たちの事がごちゃまぜになって通り過ぎていった。
「そして十四年前の『ノアの箱舟』ね。これはあなたも知っているでしょ。」
「…」
「私はその時、隠れていた小屋で家族と食事の準備をしていたの。私はたしかニシンのワイン漬けの缶詰を開けていたわ。あの人は子供に挟まれてパンを切っていた。お皿に缶詰の中身を出そうとしたとき、ノアの箱舟が起きたのよ」
無理に笑おうとするイソルデの唇が引きつっていた。
「気が付いたら、私はその場に寝ていた。皿の上のニシンは干からびていて、切りかけのパンとナイフがテーブルの下に落ちていた。どうしていいか分からなかったから、私はあの人と子供が帰ってくるのを待ったわ。でも結局、戻ってこなかった。捨てられたんだなあ、って思ったのよ」
僕は俯いて彼女の話に耐えた。人の心に境界のない世界、僕がそんなものを望んだばっかりに、多くの人がこの世界に帰ってこられなかった。
「すみません」
僕が搾り出すように言うと、イソルデは首を振った。
「おばあちゃんの昔話に付き合ってくれてありがとう。わかっているわ。あなただって十四年前に同じ思いをしているはずだもの」
イソルデは立ち上がると、飲み残したスープを鍋に戻して、二階へと上がっていく。
「あの」
僕が言うと、イソルデは階段の途中から僕を見た。
「そのとき、十四年前、僕には好きな人が三人いました。帰ってきたのは一人だけでした」
そう。とイソルデは頷いてから、胸元で十字を切った。
「今日はその二人に祈りを捧げてから眠るわ」

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