
※千野 隆司 著 『おれは一万石 絆の道行』36
あいかわらず高岡藩には金がない。
藩主井上正紀(いのうえ まさのり)が始めた様々な事業はそれなりに軌道に乗ったといえるが、何しろ絶対額が足らない。 最近始めた、藩で五大力船(ごだいりきせん)を借り入れて行う、船問屋の代行業務が比較的順調であるが、限界があった。必ず船が借りられるとは限らないからだ。
藩では、自前の船が欲しかった。だが金がない。頼るは、脇両替の熊井屋の跡取り房太郎の、物の値段を見る目だった。何時何を買い、何時売ればよいか。房太郎は、それをいつも調べていた。
江戸市中では、辻斬りが横行していた。正紀が友人の北町奉行所の与力山野辺蔵之助(やまのべ くらのすけ)と旧交を温めていたところ、二人は五件目の辻斬りに遭遇した。成り行き上、協力して下手人を追うことになった。
五人目の被害者嘉平が、自前の船をもって荷を受け輸送を行う船頭であったことが明らかになった。しかも、嘉平が有能な船頭であり、誰もが請けられるわけではない仕事をしていたことが、正紀の注意を引いた。
元は嘉平の、今は息子嘉助の持ち船が浅瀬に乗り上げ、その船が火をつけられ炎上した。辻斬りと無関係とは思えなかった。辻斬りの話が川の水運に繋がり、複雑な利権があぶり出されていく。
辻斬りの犯人を調べる中で浮かびあがってきた貧乏御家人の生活は、御家人株の売買さえも珍しいものでは無いほどに、苦しいものだった。
市井の物流は徐々に盛んになっていくが、松平定信の天下は終わりそうである。側近の離反が城中では見えてきた。露西亜船の出現に対する蝦夷地への対応が幕閣で問題になっている。さらには、成長した 現将軍家斉(いえなり)が親政への意欲を露わにした。
近々為政者が変わるかもしれないことを考えると、兄の睦群(むつむら)の闘病は残念なことだった。小康状態にあるとはいえ、これまでのような情報は期待すべくもない。
藩とその周りにも、些細なことも含めて、様々なことが起こっている。
正紀がよく話題にするので、京は房太郎に関心があった。房太郎が寅(とら)という娘と近く祝言を挙げることも伝えてあった。房太郎の判断に従い、藩が買った水油の値が上がったことを京に告げた。
<「房太郎は、祝言を前にして、張り切っているのでございましょう」
… 略 …
「物の値の上下に関心はあっても、人の心はそれだけで満たされるものではあります
まい」
「変わり者の房太郎だが、人としての心根はあるということだな」
「いや、お寅どのによって、はぐくまれたのでは。喜ばしいことでございます」>
(185-186頁)
京の眼は鋭い。心根がある、というよりも、周りの者によってはぐくまれた、という見方は、現在でも忘れられがちだ。
このことに限らず、正紀はこれまでも周りで起こったことを、そのたびに京に伝えている。ただ、
<清三郎が亡くなるまではあった気丈さが、薄れてきたのは確かだと正紀は思ってい
た。>(67頁)
正紀は、本作でもたびたび京と話している。問題は、話題が余りにも頻繁に清三郎祠(せいざぶろうし)のことになってしまうことである。
実際に、水油を買った、という話に対する京の反応が、「明日にも清三郎祠へ参って祈願」をしてくる、という話になった。だが、正紀は思っている。
<房太郎は博奕を打っているのではない。根拠があって売り買いをしている。そこは
信じていた。>(171頁)
京の心がなぜ清三郎祠に傾くのか。藩内にある世子を望む声が徐々に大きくなっているせいだろう。世子が無ければ、という事態に対処する案は、当時も今も幾つかあるだろう。だが、いずれの案も何かをあきらめることでしか受け入れることはできない。だが、諦めることができないからこそ、人は奇跡を願う。信仰に縋る。京も、 信仰に縋る気持ちに傾いているように思う。
清三郎祠は年を経るごとに、お詣りする者が増えているという。お詣りする者の数が、ある程度以上になれば、賽銭の額が幾らである、ということだけではなく、意外な面での影響力が生まれてくるのではないか。
祠にお参りするものが劇的に増えた時、その祠がどんな形に変容するかについて、多分探せば有るのだろうが、これまでに記述されたものを読んだ記憶はない。作者に、そういう事を、物語世界に取り込む気があるかどうかわからないが、非常に興味深い。
*千野 隆司 著 『おれは一万石 百貨の難』37
ちの たかし おれはいちまんごく ひゃっかのなん
双葉文庫 株式会社双葉社 2026/7/11
