連作短編のスパイ小説です。とはいえ、これまで読んできたスパイ小説とはかなり趣きがちがいます。
<アシェンデンにはよくわかっていた。この件がこれからどうなるのかは知りようが
ない。複雑で巨大な機械の小さなネジに過ぎない自分には、全体の動きなど知りよ
うがない。>(26頁)
これまで読んだスパイものについて思いかえしてみると、登場するスパイが「全体の動き」を理解していた場合が多かったように思います。しかし、こういわれてみると、ほとんどのスパイが、「全体の動き」を理解している場合など、想像できなくなりました。
上司Rがアシェンデンに、言います。
<「任務につくまえに、ひとこといっておきたい。決して忘れないでくれ。任務を立
派に果たしても、だれからも感謝されることはないし、トラブルに巻きこまれて
も、だれも助けてくれない。いいね」
「けっこうです」
「では、また」 >(22頁)
スパイにスカウトされた直後に聞く話としてはなかなか刺激的な言葉です。しかし、アシェンデンも含め、なぜスパイという仕事に携わろうと人がいるのでしょうか。不思議です。
いつであったか、何に載っていたかはさだかではないのですが、随分以前に読んだ本の記憶がよみがえります。英国では、スパイのような汚い仕事は、高貴な貴族こそがするべきであり、貴族以外にはできない仕事である。概ね、そんな意味の言葉です。なぜか変に納得しました。
そのせいもあってか、これまで英国のスパイはすべてエリートであると思っていました。スパイになる人は、上流階級の出身者であると思い込んでいたのです。
< アシェンデンは興味深そうにRをみた。ぜいたくを知らなかった人間にとってぜい
たくは危険で、そういう人々にとってその誘惑は突然やってくる。狡猾で皮肉屋のR
がいま、目の前のけばけばしい輝きと、うわべだけの華やかさの虜になっている。
教養のある者が馬鹿話をおもしろくきかせることができるように、ぜいたくに慣れ
たものは、しかるべき傲慢さで、上っ面だけのむなしい飾りを見下すことができ
る。>(179-180頁)
有能な上司Rは、上流階級の人間からどう見えるかを強く意識しています。
アシェンデンが上流階級の出身であることは随所に触れられていますが、本作には、何人も上流階級の出身者が登場します。
英国大使であるハーバート卿は、アシェンデンの情報に耳を傾けます。
< アシェンデンをみつめるハーバート卿の鋼(はがね)のような目に突然、かすかな
笑みが浮かんだ。陰気で傲慢そうな顔が一瞬、魅力的にみえた。
「もしよかったら、もうひとつ、ちょっとした助言がほしい。平民になるにはどう
すればいい?」
「何もできることなどありません。」アシェンデンは答えた。「いってみれば、神
がお決めになることですから」>(298頁)
彼らは、自らの階級を強く意識していますが、世界を見る目はそれぞれに違います。
上流階級出身の登場人物は、英国人だけではありません。むろん男だけでもありません。上流階級出身者と平民が混じり合い、悲喜こもごもの事態が、多くは悲劇が、引き起こされることになります。
上流階級出身者は、自らの出自を強く意識しています。いわば出自に憑りつかれているのです。
とはいえ、本書の登場人物たちは、出自以外のものにも憑りつかれています。
ある女性は、朝食はスクランブルエッグを食べなければならないと思い込んでいました。恋人が、目玉焼きを食べることを許せませんでした。いわばスクランブルエッグに憑りつかれていたのです。
ホテルに出した洗濯物を取り返すことに命をかけた会社員がいました。暴徒に襲われたホテルを脱出するのに、洗濯物がなければ脱出できないと思い込んでしまったのです。洗濯物に憑りつかれたのです。
この時、暴徒たちは共産主義に憑りつかれていました。
上流階級と平民、スクランブルエッグと目玉焼き、洗濯物と共産主義。傍から見れば、比べることさえ考えないものもあります。しかし、どちらかでなければならない、と思う人もいることがよくわかりました。
本書には、夫婦、恋人の話がいくつも取り上げられています。話の背景には、階級の意識があります。ここまで赤裸々にその実情が語られている話も珍しいと思います。
何より、おもしろい話、でした。
*サマセット・モーム 著 金原 端人 訳『 英国諜報員アシェンデン 』
さませっと・もーむ かねはら みずひと えいこくちょうほういんあしぇんでん
新潮文庫 平成29/7/1