高度成長期の名古屋市に、化学製品の町工場を経営する中小企業があった。
若い経営者夫婦、筒井宣政(つつい のぶまさ)と陽子(ようこ)には三人の娘がいる。しかし、二女は生まれつきの心臓の難病を患っていた。
夫婦は、八方手を尽くして娘の病気の治療法を探したが、見つからない。
そこに、人工心臓を開発したらどうか、という話を、夫婦に持ち掛けた人がいた。
夫婦は、日本全国の病院、大学を巡り、協力を請いながら、人工心臓の開発に邁進していく。

これは実話である。
著者は清武英利(きよたけ ひでとし)。タイトルは、以下の通り。
 『アトムの心臓 「ディア・ファミリー」23年間の記録』
映画「ディア・ファミリー」が6月に公開されるという。

医師に余命10年とされた少女の、少女を取り巻く家族の、良きにつけ悪しきにつけ濃密な時間が描かれている、ことは間違いない。だが、それだけではない。それ以上に、本書は難病治療のための人工心臓の開発に憑りつかれた人々のドラマである。

月刊誌『少年』に掲載されていた『鉄腕アトム』という漫画は、遠い記憶の中にある。
あの頃、アトムのドラマは、理想主義を、何処までも前向きな姿勢を感じさせた。
時折、漫画の画面の中に、アトムの構造図が掲載されていて、食い入るように見たことを覚えている。アトムの眼は、手は、機械だった。アトムはロボットだった。機械は、ロボットは、未来、だった。
当時、新聞の経済欄には、CMではなく、新薬、新型のカメラの発売から、巨大タンカーの進水まで、様々な新製品の記事が毎日のように掲載されていたのを覚えている。新しい製品を知ることだけでも愉しみだった。

筒井夫婦が、人工心臓を作ることを決意した。資金提供等ならいざ知らず、自らの手でつくるなど、まさに破天荒なことである。
自らの手で何かをつくる、という経験は、世界を変える。間違いなく、筒井夫婦を取り巻く世界は変貌した。

何が、夫婦を、自らの手による人工心臓の製作に駆り立てたのか。

< 筒井夫婦の共通点は、向日性(こうじつせい)ということである。
  特に、キリスト教精神を拠り所にする陽子は、辛くても人のせいにしないで、力

 を尽くすことを心がけている。神様だけでなく、人様もよく見ているもので、助け

 てくれる人が必ず現れるものだ、と信じていた。>(74頁)

母陽子の母校である金城学院での日曜礼拝に、長女奈美(なみ)と二女佳美(よしみ)が通うようになった。
< そして、佳美はとうとう自分から、
 「教会で洗礼を受けたい」
  と言いだした。陽子や奈美は教会での佳美の様子を宣政に伝え、「その気持ちを

 汲んでやって下さい」と求めた。
  だが、宣政は眉を吊り上げる。筒井家は浄土宗の檀家なのだ。
 「だめだめ。仏教徒の娘が、教会の洗礼を受けるなんてとんでもない」
   … 略 …
  宣政自身が通った東海学園は、浄土宗学愛知支校として創立され、法然上人の唱

 えた「共生(ともいき)」を建学精神としている。学校でも仏教徒として育てられた

 宣政にしてみれば譲れないところなのだった。
  結局、娘と陽子の四人VS.宣政の宗教対立は曖昧な形に終わっている。>(90

 頁)

キリスト教と浄土宗。
日本で宗教の影響を語る人は少ない。
娘が<「教会で洗礼を受けたい」>と言い、父は、<学校でも仏教徒として育てられた宣政にしてみれば譲れないところ>となる。これが日常である世界に生きる人々は、隣の人と同じ判断はしないのかもしれない。



* 清武 英利 著 『アトムの心臓 「ディア・ファミリー」23年間の記録 』
 きよたけ ひでとし  あとむのしんぞう 

          「でぃあ・ふぁみりー」23ねんかんのきろく
 文春文庫 株式会社 文藝春秋  2024/4/10