本書は、 ドイツのケストナーによる戯曲です。
1956年に出版されていて、ナチス関連のものと思い込んでいましたので、内容は予想外のものでした。とはいえ、独裁というものについて、改めて考えるきっかけになりました。

この戯曲のあらましは、以下のようなものです。
独裁者であった大統領が暗殺されましたが、大臣たちの操り人形となった替え玉により、独裁は継続されます。替え玉は幾人も作られましたが、その養成所が、「独裁者の学校」です。これがこれまでの経緯です。
この「独裁者の学校」の出身者が中心となって、独裁制を廃止すべく、クーデターを起こします。そこにまた、新たなクーデターが起きます。違う形の独裁の到来を予感させて、この劇は終わります。

作者は、「まえがき」の中で述べています。
< 本書は脚本でありつつ、風刺にも見えるだろう。だが本書は風刺ではなく、自身

 のカリカチュアになりはてた人間を誇張なく描いたものだ。このカリカチュアはそ

 の人間のポートレートにほかならない。>(7頁)
「このカリカチュアはその人間のポートレートにほかならない」とは、その人のグロテスクさがむき出しになった人間のことだ、という意味に解釈できるでしょう。しかも、その状態が、グロテスクさがむき出しの状態が、そのまま続いていく、ということなのだと思います。

そのような登場人物たちが演じる劇がどんなものかは想像するに難くありません。
< 本書は脚本であるが、強いてレッテルを貼るなら、どさまわりの茶番劇だ。>

 (8頁)
と、作者は言いますが、実際に読んでみれば、意識的に演出された「茶番劇」でした。劇中のセリフにこんなものがあります。
<七号  悲劇の時代なんてもう終わったさ。あるのは事故ばかり。交差点と変わら

 ない。>(55頁)
ただ名もなき人々の、てんやわんやが演じられていきます。

ヒトラーが、権力掌握のためにラジオ演説という、当時のハイテクを駆使したのは有名です。この作品にも、ラジオ等を駆使した情報操作が登場します。ハイテクは、いつの世も謀略のためにあるようです。

独裁というものが、どのようにして成立するのか?
<大統領夫人  (飛び上がる)あの連中が「笑え!」と言えば、みんな笑う。あの

 連中が「行け!」と言えば、みんな行く。あの連中が「この男と寝ろ!」と言え

 ば、(少佐を指さす)みんなこの人と寝る。あの連中が「自分を軽蔑しろ!」と言

 えば、みんなそうする。 
 少佐  われわれが服従するかぎり、あの方たちが言うことは正しいですから。>

 (92-93頁)

「われわれが服従するかぎり、あの方たちが言うことは正しい」のだと言います。騙(だま)され、唆(そそのか)され、脅(おど)かされ、強制されて、みんなは、自分はそうするのです。 騙されたから、 脅かされたから、と言って、自分の中で正当化はされるのです。ただ、そうした、ということを、みんなが見ているのです。

思いかえしてみて、自分が、服従した、という経験をもったのは、何時のことだったのか? エッ、無い! 本当二ィ〰

*エーリッヒ・ケストナー 作 酒寄 進一  訳 『独裁者の学校 』
 えーりっひ・けすとなー  さかより しんいち  どくさいしゃのがっこう
 岩波文庫 株式会社岩波書店 2024/2/15