本家の浜松藩主井上正モト(いのうえ まさもと)の力を借りて、分家である下妻(しもつま)藩主井上正広(いのうえ まさひろ)は、遠州茶の取引に携わることになりました。同じく分家の高岡藩主井上正紀(いのうえ まさのり)は、茶と、同時に運ぶことになった米の輸送のための船の手配に手を貸しました。


正紀の近習の植村仁助(うえむら にすけ)は、下妻藩と浜松藩の荷を運ぶ二艘の船の護衛役の一人となりましたが、覆面姿の四人の侍に船上で襲撃されました。二艘の船ごと荷を強奪され、下妻藩と浜松藩の護衛役は、殺されました。一人だけ助かった植村は、荷を取り返すことができなければ、命すら危うい立場となりました。

植村は、喜世(きよ)を娶(めと)ってから、傍目にも積極的に仕事に取り組んでいるのがわかる程でした。
< 喜世は、植村が藩内で窮地に立たされているのは分かっている。自分も心無い言

 葉を浴びせられた。
  … 略 …
 「ご無理や無茶をなさらぬように」
 と喜世は続けた。喜世は、自分を失うことを怖れていると植村は感じた。
 「うむ」
  喜世の言葉で、背筋が震えた。
  これまで親以外に、そういう思いを持ってくれたものはいなかった。… 略 …
 「この女子(おなご)を、悲しませることはできない」 >(185頁)

正紀、妻の京、幼い孝姫、赤子の清三郎がいる。孝姫が赤子のことで母から話しかけられる。
< きょとんとした顔で、母を見つめる。
 「あなたも、よく泣きましたよ」
  清三郎の顔を見つめながら母娘で話をしている。孝姫は、今でもよく泣く。
 「だって、うーんと」
  何かを言おうとしたが、孝姫は京の膝の上に乗って胸に顔を寄せた。甘えてい

 る。母親を、清三郎に取られるという気持ちもあるようだ。
  甘ったれになった。
  正紀は、しばらくそのやり取りを窺う。 >(78-79頁)

植村の家族、正紀の家族。場面がちがい、そこに流れる感情も別のものです。けれども、やさしさ、切なさ、いとしさ等々、喜びが、しあわせが、そこにあります。
しかし、家族ができる、ということには、じつに多くの側面があります。必ずしも良いことばかりが起こるわけではありません。

正紀に京はいうのです。
<「嫡子の誕生を祝ってくださったわけですね」
  京は、どこか冷めた口調で言った。
  生まれる赤子が男か女かは、「おぎゃあ」と産声(うぶごえ)を上げるまで分から

 ない。親族や家臣一同は、跡取りの誕生を願った。その思いは、京の心を圧(お)し

 ていた。京は流産の経験もあった。
 「生まれた赤子が男児であったのはめでたいが、もしまたしても女子だったらどう

 なのか」
  その思いは、京の胸の内では大きいはずだった。 >(24-25頁)

御家の安泰。家族の中で誰が家を継ぐことになるのかという問題です。単独の大名家の問題、一門の問題、家臣同士の問題等々。いずれも、誰を娶るか、誰を婿とするか、ということになります。

起こったことが、荷の強奪という形を取ったとしても、そもそも何のためにそれが行われたのか、それが問題です。己の野心のために事を起こしたことは間違いないにせよ、それぞれの御家の事情は、錦の御旗とする以上の重みをもっていると思います。

事件に加担した者たちにはそれぞれの思惑がありました。同様に、事件を阻止した者たちにもそれぞれの思惑があったわけです。

今現在、敵であれ味方であれ、それぞれの己の抱える御家の事情に対する思惑が、今回の事件で、すべてが表面に出たわけではありません。

これから先、どんな迂遠な形であったにせよ、ほのめかされていた、思わぬ人の思いが、じわじわと、拒み得ぬような形で現実化してくるのではないか、と危惧してしまいます。

*千野 隆司 著 『おれは一万石 銘茶の行方』
 ちの たかし おれはいちまんごく めいちゃのゆくえ
 双葉文庫 株式会社双葉社 2024/3/16