※引用は単行本より


励み場は、<己の持てる力のすべてを注ぎこむのに足りる場処>は何処にあるのか?(49頁 下線は原文では傍点)

笹森信郎(ささもり のぶお)は、江戸の勘定所(かんじょうしょ)で普請役(ふしんやく)を務めています。
< 勘定所は、幕府の御役所のなかで、数すくない励み場である。つまり、励めば報

 われる仕事場である。生まれついた家筋がすべて、という幕府の職制のなかで、力

 さえあれば上が開けている仕事場が勘定所だ。実際、御目見(おめみえ)以下の御家

 人(ごけにん)が以上の旗本に身上(みあ)がる目があるのは、勘定所をおいてない。

 しかも、信郎の普請役のように、武家以外の身分が、武家となる階段も用意されて

 いる。ひいては、百姓・町人が旗本になる路が開かれているということだ。>(70頁

 下線は原文では傍点)

信郎が幕府代官所の元締め手代で、豪農の娘である智恵(ともえ)を娶る前、二人の間に交わされた話がありました。
<「江戸で、なにをされるのですか」
 「武家になります」
 「お武家さまに?」
 「ええ」
  … 略 …
 「笹森様は、お武家さまになりたいのですか」
 「なりたい、のではなく……」
  話は雲をつかむようなのに、口調は確かだった。
 「ならなければ、ならんのです」
  そして、すぐに続けた。
 「わたしは名子(なご)ですから」
  ああ、と智恵(ともえ)は思った。 >(27-28頁)

名子とは、元は武家でありながら歴史に翻弄されて、百姓の小作よりも下に見られるようになった身分のことです。

信郎は、勘定所のはるか上役、旗本の勘定である青木昌泰(あおき まさやす)に呼びだされました。とある村に赴き、ある調査の報告書を提出せよ、というものでした。ただし、その報告書の内容はあらかじめ決まっている、とのことでした。

信郎は、その調査を自分が身上がるための実績とするはずでした。しかし、調査が進むにつれ、意外な、そして深刻な事実が見えてきます。
村に起こっていたことは、名子という身分に深く関係していました。また自分がこれから行うべきことの本質を考える上でも、名子のあり方を考慮するべきでした。

信郎は、これまで自分がしてきたことの重みを背負い、これからできるかもしれないことの意味を考えながら、村の名主と対峙することになります。
信郎の留守の間に、智恵も大きな困りごとを解決しようとしますが、それがきっかけとなって、思わぬ事実が明らかになっていきます。

名子、という初めて知る世界が描かれていますが、これだけで、世界が変質してしまっています。最後の、信郎の決断に対して、同感するとも、反対するとも言えませんでした。ただ、その決断に対して、それぞれに立ち上がってくる世界があり、それぞれが、改めて信郎に決断を強いる形になるのだろうな、と思います。

世の中とは、つくづく、一筋縄ではいかないものです、ネ…。

*青山 文平 著 『励み場』
 あおやま ぶんぺい はげみば
 株式会社 角川春樹事務所 2016/9/8