ザ・歴史、です。
歴史とは、history — his story である、と聞いたのはいつのことでしたか。
歴史の語り手である彼とは、柴五郎(しば ごろう)中佐です。当時、日本公使館付陸軍駐在武官でした。
 

語られるのは義和団の乱です。しかし、実際に彼に語りえるのは、北京にある連合国の10余りの公使館を義和団軍、清国軍から守る戦いです。連合国軍が北京に侵攻してくるまで持ちこたえなければならないのです。ほとんど二ヶ月に渡る、食料の備蓄もろくにない籠城戦でした。

各公使館を守る軍隊は、各国の連合軍約500名です。
公使や五郎をはじめとする公使館幹部には、日清戦争を経た後、意識しなければならないことがありました。
< 戦争に勝って政治で負けた悪夢を引きずる日本は、国際協調という美名の下に隠

 忍自重を強いる列国の意向に、表向きは逆らわないことを国是とした。出る杭(く

 い)は必ず打たれると知った日本は、まわりに足並みを合わせることを当面の基本政

 策と定めたのである。>(44頁)

更に多くの懸念事項がありました。五郎は若い大尉に説明します。
<「外交の舞台に、目立ちたがりと出しゃばりは不要だ」
 「自分の意見を述べるのが出しゃばりとは思いません。… 略 …」
 「相手が日本人ならそれでよい。しかし我々は東洋人だ。清国においては東夷とさ

 げすまれ、西洋においては黄色い猿と馬鹿にされる、小さな島国の住人である。」

 >(70頁)

五郎の階級は中佐です。連合軍の将校の大部分よりも上の階級です。国の力関係という側面はあるにせよ、どこの国の軍隊においても上官の命令は絶対です。この事実が五郎を助けました。

連合国には、個々の国にそれなりの事情があります。
薩長軍に蹂躙された会津人の五郎にとってもそれは変わりません。
< 忘れようと思って忘れられるものではない。呑み込もうと思って吞み込めるほ

 ど、小さくない。
  やり場のない恨み、癒えない痛みだけを抱えた会津の遺臣にとって、日本人であ

 ることを当然のように要求する陸軍は、新生日本は、まるで生き地獄だった。>

 (147頁)
その五郎が、イギリス軍のスコットランド人であるストラウト大尉を、イングランド人として扱ってしまい、苦情を言われます。
<「カーネル、わたしはイギリス人でありスコットランド人ですが、イングランド人

 ではありません」
  声音に棘があったので、過ちに気づく。>(314頁  カーネル は中佐の意)
そして、大尉に訊かれるのです。
<「わたしはカーネルのことを日本人だと思っていいましたが、違うのでしょう

 か?」
  一瞬、返すべき答えを見失う。>(315頁)
五郎は自問する。
< 日本人だと思っていた。違うのか。
  会津人であることと日本人であることが、いまだに自分のなかで同一でないこと

 を知った。>(316頁)

各国の思惑の中で、日本隊は様々な配慮をしながら、最善を尽くしたと言えます。
連合国軍の各国の隊の中で、日本隊の人数が最小で25名しかいませんでした。そのため日本隊は他国から多くの便宜を受けることになりました。が、結果的に、この事態が、五郎が全体の状況の把握を容易にし、適宜指示を、事実上の指揮を執ることを可能にしました。

北上した連合国の大軍が北京に侵攻し、公使館の籠城戦は終わりました。終わる時には、五郎は、侵攻してきた軍による略奪の心配までしなければなりませんでした。

五郎の目を通して、義和団の乱の中の一つの戦闘である、連合国の公使館の籠城戦を見ることができました。
19世紀終わりごろの国民国家の一面がよくわかります。
どの国も、「国民」が一枚岩とは言えません。特に、日本はいまだ形成途上でした。
日本が、明治国家が、列強に対して、いかに気を遣っていたか、同時にいかに果敢に行動したか、ということも見て取れます。

すべての歴史は、現代の歴史である、という言葉を読んだ記憶があります。たとえ、この読書の内容が、「公使館の籠城戦」だけであるにしても、そのごく限定的な事象を、現代 を深く考えるための材料とすることができると思います。

*霧島 兵庫 著『静かなる太陽』
 きりしま ひょうご しずかなるだいち  
 中央公論新社 2020/3/25

 

以下は文庫版