著者は、神奈川県の桐蔭学園という高校で野球をしていた。所属チームは二度甲子園に出場している。ただし、著者は補欠であった。後に、この時の体験を小説にしたが、それは、「恨み」あるいは「憎しみ」からであった、と述べている。

二〇二〇年、夏の甲子園が中止になるかも知れない、というウワサが流れてきた。 
< 甲子園のない夏だ。
  甲子園のない高校野球。
  もし、万が一、本当に夏の甲子園が中止になるようなことがあったとしたら、現

 役の選手たちは、とくに三年生たちはいったい何を感じるのだろう。
  … 略 …
  彼らは何を失い、何を得るのか。最後に笑っているのか、泣いているのか。そも

 そも何をもって最後とするのか。野球に決着をつけ、次の一歩を踏み出すことがで

 きるのか。>(19-20頁)
そう書いた著者が、愛媛県の済美高校、石川県の星陵高校を取材することになった。
自分の、高校の野球部時代に受けたインタビューでは、本音を口にしたことは一度もなかった。「大人に求められているだろう意見」を、平然と口にしていたことを思い出していた。
この時点で、部員に対するインタビューを強く意識していたが、実際には、二人の監督に対するインタビューが予想以上に増えていった。

<高校野球って甲子園がすべてなのかな?> 済美高校で問う。
<キャプテン山田「自分たちはそう信じてやってきました。すぐに気持ちを切り替えろと言われても、なかなか難しい面があると思います。」>(38頁)
<君たちを支えるものは何?> 星陵高校で問う。
<キャプテン内山「残り二ヶ月、甲子園がなくてもやりきったということに全員が意味を感じられるように、自分がみんなを引っ張ってがんばっていけたらと思っています。」>(85-86頁)

甲子園で試合をする、という過去に夢見たものからの視線が、二人のキャプテンの言葉から感じられる。済美高校の監督も、「気持ちを切り替えろ」とは言いえても、その言葉に内実があるわけではなかった。

この時点から最後まで、例外的なものを除けば、監督と部員のあいだに濃厚に漂っているのは、「甲子園」に対する未練であるように見える。実際、甲子園の代わりになる試合が、そこかしこで準備されることになる。そして、その結果は生まれた。それにしても、「やりきった」という感覚は、本人以外確認のしようもない。

ふと思った。「甲子園」での試合というのは、江戸時代の御前試合のようなものかもしれない、と。
御前試合と考えれば、誰しもが、「大人に求められているだろう意見」以外は口にしないのもわからないでもない。
場所は、江戸城ならぬ甲子園球場でなければならず、分散開催などもってのほかである。開催形式はトーナメント方式以外考えられない。ピッチャーの球数制限などという不純なことは断じて認められない。入場行進、ブラスバンドの応援その他の儀式は何としても守られなければならない。
一般人からすれば、突然、時代劇の世界が出現することになる。

例外的なものの一つは、ごく当たり前のことについてのものだった。
済美高校に佐藤というサウスポーの投手がいる。
彼が野球をしているのは甲子園に行きたいからであり、野球は高校で区切りをつけると決めていた。

二年生の夏の県大会ではベンチ入りした。だが、以後は結果を残せていない。
夏の大会の中止の報を聞き、<佐藤は自分の野球がその瞬間に終わったことを自覚した。>(95頁より)

佐藤は就職することを考えた。希望は、<これまで野球で鍛えてきたことがきっと生きる><消防士になることだった。><それを達成するために、すぐにでも野球から勉強に軸足をシフトさせたい。>(95-97頁より)

著者は、佐藤の考え方を、<とても論理的でシンプルな考え方>で、<積極的に自らの人生をつかみ取りにいっている>と評価している。監督の中矢も同様なようであり、「理想的」とも語った。しかし、この当たり前としか思えないことに対して、佐藤の<導き出した答えは「最後まで野球部に残る」というものだった。>(97-98頁より)

著者は、<野球部の、あるいは運動部特有の同調的な圧力もあったはずだ>と記す。だが、佐藤は、その時点での野球部の総意が、自分の意思を認める状態にはない、と判断したのだろう。佐藤は、野球部を覆う、甲子園もどきの試合の世界に浸っていたいという、この「未練」の総和に勝てなかった。

もう一つの例外的なものは、より根源的なものだった。
著者と 星陵高校キャプテン内山の対話である。
<——もう一つ仮説をぶつけさせてほしい。僕には内山君が甲子園のために高校野球

 をしているというふうには見えないんだけど、間違ってる?
 「いえ、合っていると思います」
 ——本当に?
 「チームメイトにはいつも「みんなで甲子園に行きたい」と言ってるんですけど、

 本心としたら、高二のセンバツが終わった頃からずっと次のステージを意識してい

 ます。それが自分の中心にあるものかなっていう気はしています」
  甲子園はすでに内山にとって手段であって、目的ではないということか。ほんの

 一瞬の間を置いて、僕は「それってチームの誰かに話したことある?」と尋ねた。
  内山はどこか申し訳なさそうに首をひねった。
 「同じ思いを持った人間がいるとは思っていないので。たぶん言わない方がいいん

 だろうというのはわかっています」>

 (119-120頁)
こういうものまで理解しなければならないとしたら、エリート校の野球部の監督という仕事は、とんでもない仕事なのだろうと思わざるを得ない。

著者の経歴があってこそ、このような本を書けたのだろう。書かれていることは、必ずしも野球に限ったことではない。いわゆる名著だとは思わないが、熟読する価値のある作品だとは思う。
十年後に読み返すと、まるで違った風景が見えるかもしれない。

*早見 和真 著 『あの夏の正解』
 新潮文庫 2022/7/1