*千野 隆司 著『おれは一万石 西国の宝船』 

 双葉文庫 書き下ろし 双葉社 2022.12.18 

 

 

井上正紀(いのうえ まさのり)は、下総高岡(しもうさたかおか)藩一万石井上家の当主となった。 

 

新たな治世に際し、実力本位で人心を一新した。

藩内は、親正紀派と反正紀派に分かれていたが、新人事に不満だったのは、どちらかというと親正紀派の一部であった。不満は各所で燻ぶり、造反するものまで出てしまった。 

人事の不満を抑え込むためには、すべての藩士が納得する施策を成功させる必要があった。 

 

正紀は、宿願である藩士の禄米二割の借り上げを廃止を企てる。 

財源として、下り塩を高岡藩で仕入れ、利根川流域の藩および土地の問屋に売ることを考えた。とはいえ、正紀には、必要な金のめどは立たず、失敗すれば、損を抱える恐れさえある。決断は難しかった。 

 

正紀の話に妻の京が言葉を返す。 

<「ならば、おやめ遊ばせ。できぬとの気持ちがどこかにあれば、できることもできなくなりまする」 

「うむ」 

 素直な気持ちを伝えたつもりだが、京の言葉は胸に響いた。気持ちが揺れた。やろうとしていたことに迷ったのではない。止めようとしていた気持ちが揺れたということだった。 

「もう少し、やる方向で考えよう」 

 と腹は決まった。>(63-64頁) 

 

やることは決まった。しかし、藩士たちは、商いのまねごとさえしたことはなく、手を付けるそばから、思わぬ難題が次々に襲いかかる。 

 

実力本位の人事の一環として江戸勤番となった者がいた。廻漕河岸場方奉行助役の杉尾善兵衛と廻漕差配役の橋本利之助の二人である。彼らは、慣れない仕事にもかかわらず、見事に正紀の期待に応えた。新たな戦力が生まれたのである。 

 

京は正紀の精神的な支えになるだけではなかった。 

<迷っているときや手立てがないとき、京と話をする。それで問題の整理をした。見えなかった解決の糸口が、ぼんやりとでも浮かんでくることがあった。 

 京はときに、とんでもないことを口にすることがある。そのとんでもない言葉が、難題を解決する糸口になった。>(216-217頁) 

今回に関しては、塩の売り込み先を獲得するための方策、そして荷を運ぶ船をいかに確保するかの具体的な手立てである。 

 

妻の京は、正紀にとって、いつしか得難い軍師、参謀となっていた。 

 

新しい時代の始まりである。 

藩の財政改革も緒に就いた。 

新旧揃った江戸の陣容も始動した。 

大奥御年寄滝川と京の密談も、何が起こるのか、大いに楽しみである。 

しかし、藩内の連判状の写しの行方は。未だわからない。これからの正紀の積極的な藩政に、一波乱ありそうである。