鈴木忠平の著書、『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(以下『嫌われた~』とする。)を読んで、落合博満という人物に魅せられた。ファンになってしまったのである。

 

 

『嫌われた~』を読んだのがきっかけでファンになったのであるから、もちろん『嫌われた~』は熟読した。しかし、読めば読むほど知りたいこと、疑問に思うことが増えていく。より多くの情報が欲しくなる。

 

ここまでは当たり前の反応である。しかし、(少なくとも自分自身に関しては)困った問題がある。情報は欲しい。しかし、『嫌われた~』を読んで自分が持ったイメージに反する情報は見たくない。自分の理想に合わないものは認めないのだ。嫉妬の身勝手さに匹敵する邪念である。とはいえ、ファンというものはそんなものでしかありえないのだ。

 

先日、本屋でたまたま棚に一冊だけ有った『落合博満論』に気づいてしまった。著者「ねじめ正一」が熱狂的な長嶋茂雄ファンの詩人であることは記憶の片隅にあった。

ネットの、落合に関する断片的な記事はいくつか読んでいたが、新たなまとまった本は読んでいなかった。どこかの記事の切り貼りというような本ではあるまい、という見当はついた。だが、やはり、読みたいと思う気持ちと、やめておこうという気持ちがせめぎあっていた。意外な視点で思わぬ高評価がされているかもしれない。しかし、その語り口が気に入らないということもある。

 

で、結局買ってしまったのである。

買って、読んでよかったと思う。『嫌われた~』で感じたことを、少し違う形の表現に接することで、より理解が深まった。

 

以下は、ねじめ正一と女優の富士眞奈美との対話の一部である。

 

<ねじめ 自分の出ていく必要のないくらいの体制をつくるのが、とにかく大変だったって。それくらい、落合監督はコーチにしっかり野球を教えていました。選手には何も言わない。コーチを育てるのが、落合監督の仕事だったんだね。その時間がけっこうかかったと思いますよ。>(200頁)

 

監督とコーチの関係がどうであったか、ということは、『嫌われた~』の記述でははっきりしなかった。誰かが選手との関係をささえていたはずであったが、たぶん、というものでしかなかった。やはりコーチが大きな働きをしていたのであると、このことから確認できた。

 

<ねじめ 監督としての落合は、あの手この手を使って勝とうとするタイプの監督ではなかったよね。調子のよい選手が、きちんと活躍できれば、それでいいというシンプルな野球。だから選手も、自分が何をやればよいのかわかっていました。中日の選手たちは、落合監督についていけば野球がうまくなり、年俸も上がっていくと信じてた。勝てば選手の力、負ければ監督のせいと認めてくれたからです。

でも一方で、気を抜けば野球生活はその時点で終わり、とも教えている。大人の思想を持った監督だったね。>(202頁)

 

落合がどんな監督であったかを端的に述べた一節である。まとめとして秀逸であるが、監督と選手の間の強烈な緊張関係は表現されていない。

 

<富士(眞奈美) 落合さんが中日の監督になってからは、信子夫人はもっと落合さんを守ろうとして、それまで仲のよかった人たちとも付き合いをなくしちゃった。落合さんが監督という仕事をやるためには仕方がなかったのね。

ねじめ 情報を漏らさないって言うのは戦いの基本だもんね。 >(199頁)

 

落合のような強烈な生き方は、落合個人ですべて完結させられるわけもない。好むと好まざるとにかかわらず、周りの人間には大きな影響を与えることがよくわかる。