2018年公開の映画『コーヒーが冷めないうちに』について、学生が発表してくれたので、見直してみた。

 

「フニクリフニクラ」という路地裏の小さな喫茶店。普段は幽霊の女性が座っている席に、彼女がトイレにいった隙に座って、ある特定の時を思い浮かべるとタイムリープできる。でも規則がたくさんあるのでそう単純ではない。この喫茶店を訪れた人としか会えない、コーヒーが冷めてしまうまでの間だけ、など。

 

ちょっと疑問に思ったのが、「コーヒーが冷める」って、何を基準にして「冷める」のか、ということ。

 

3人の女性と1人の男性が過去に戻るのだけど、どれも感動的なエピソード。喫茶店以外ではアクションが行われないので、閉鎖的なんだけど、人物が次々と入れ替わるのと、役者陣が演技派なのとで、舞台を見ているかのようにあきない。演劇的ですね。

 

それもそのはず、もともと演劇だった。それが小説化され、映画化されたそうで。

 

その観点からすると、「コーヒーが冷める」のあいまい性も理解できる。舞台上の象徴的な手法なのですね。雰囲気を醸し出す効果なのでしょうね。小説のように現実をリアリスティックに写し出すのではないのです。喫茶店というノスタルジックな空間を演出するほうが重要なのです。視覚的なんですね。

 

それとこの映画の良い点は、過去に戻る理由がちょっとした感情の行き違いなので、殺人のような大きな事件にはならない。慟哭(どうこく)を誘うような悲劇的な恋愛事件にもならない。やさしく繊細な感情の交流がテーマとなっているのです。

 

喫茶店でコーヒーを淹れるのは、有村架純が演じる時田数ちゃん。ホンワカして優しい感じだけど、謎めいていて、心に傷を抱えているみたい。

 

実は、石田ゆり子演じる幽霊は、有村架純のお母さん。彼女がまだ子供の頃、亡くなったお父さんに会うために過去に戻ったのだと和ちゃんは思っていた。

 

時間旅行するためのコーヒーを淹れることができるのは、時田家の女性だけ。すなわち、和ちゃんだけ。和ちゃんは過去に戻って、お母さんに、「どうして戻って来なかったの?」「私のこと好きだった?」って聞きたいのだけれど、コーヒーを淹れてくれる人がいないので戻れない。

 

しかしここで名案が。和ちゃんはお腹に子どもを身ごもっていた。女の子である。その子が未来からやってきて、コーヒーを淹れてくれたので、和ちゃんは過去に戻ることができた。

 

お母さんはお父さんに会うために過去に戻ったのではなかった。余命3ヶ月と宣告されて、自分が死んだあと娘が幸せかどうか気になって、未来に行ったのであった。「お母さん、お母さん!」と泣き叫ぶ娘を振り切ることができずにいるうちに、コーヒーが冷めてしまったのだ。

 

お母さんに愛されていたことを知った和ちゃんの心にはもうすきま風は吹かない。自分に自信をもつことができたので、安心して、結婚し、子どもを産むことができたのだった。

 

その子が中学生になったとき、過去に戻るべく準備をする場面が、エンドロールの最後に出てくる。店の扉横には、「約束の時間」として、その子が戻るべき過去の時間が記されている。

 

しかしここで疑問が生じる。どうやって未来にメッセージを送ったのか?そこのところは描かれない。十何年待って初めて自分の子を過去に戻すことができるわけだが、その子がお腹の中にいる時点では、まだその未来はやって来ていない。

 

ということは、現在も過去も、時間は直線上に不可逆的に存在しているのではなく、点として存在しているということなのだろうか。現在のある点の上に生きている和ちゃんは、同時に未来のある点の上にも存在し、その未来で事を起こすことによって、今現在の点上に自分の未来の娘を呼び込んだのだろうか。

 

タイム・トラベルに関して理論的に詰める必要はないのかな。この映画は、人々の優しさを描いているのだからね。