少し前、『白珠を我は知りしか』という本が紹介されていた。
そのタイトルは万葉集からとったとのこと。
で、元歌を知りたいと思った。
白珠は人に知らえず 知らずともよし
知らずとも我し知れらば知らずともよし
(詠み人、元興寺の僧とある。)
白珠は人に知られない。
しかし、知られずともよい。
たとえ人がしらなくても、
自分自身が知っているのなら、
人が知らなくてもよい。
そのように説明されていた。(万葉百科、奈良県立万葉文化館)
だから何?なのだけれど、ちょうど庭の手入れをしていて、
ドウダンツツジの白い花が、緑の苔の上に散っていて、
そのコントラストが美しく、白珠に見えなくもない。
矛盾しているのだけれど、誰かに知って欲しくて書いてみた。
綺麗だと思ってくれる人はいるだろうか・・・。
いま庭仕事が忙しく、地面ばかり見ているうちに5月も半ばです。
もっとゆったりと暮らしたいのですが、難しいです。😢
みなさんはどうなのでしょう?
覗いて下さってありがとうございます。
5月病となんか無縁で、元気で過ごされて下さい。(*- -)(*_ _)ペコリ
***きょうのオマケ***
知らない繋がりで、昨日読み終わった本
井上隆史著『三島由紀夫を誰も知らない』
興味深く読んだけれど、いまの自分では十分に消化できそうもない。
著者のブタペストでの公演からの抜粋(P346~P347)
ちょっと長くなるけれど、タイムリーな話。
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前略
三島由紀夫が生きていたら何を語るか
このように考えるとき、もし、三島由紀夫がこんにちの世界を目にしたとしたら、何を語るだろうかという問いに答えるための糸口が見えてくるようにも思います。地球上ではいま至るところに戦乱、または戦乱の種があり、目を覆いたくなる惨事が毎日報じられている。この現実に対して、三島はどのような言葉を投げかけるか。
三島はあるところで、「肉体の外に人間は出られないということを精神は一度でも自覚したことがあるだろうか」と問うています。これは、人間にとって大切な現実とは、いまとここにしかないということです。しかし、このことに気づくためには、一方で、いまとここを超える視点を持っていなければなりません。『豊穣の海』における歴史と仏教は、そのような視点を与えてくれます。
ここで重要なのは、私たちは、いまとここを超える視点を学び、これに耳を傾け、それを鏡にして、自らの生を律しなければならないということですが、同時に忘れてはならないのは、日々を生きている私たちは肉体の外には1ミリも出ることができないという事実です。精神はしばしばこのことを忘れて暴走する。テクノロジーの進歩、特にAIと結びつけられた兵器は、この錯覚をますます助長します。肉体を忘れた精神の暴走は、精神の進化ではなく退化にほかならない。
この時、私たちは、超越的な視点から現在を律するのではなく、自分自身があたかも超越者であるかのように振る舞ってしまう。しかも、なんらその責任を負おうとしない。こんにちの世界の混乱は、まさにこのような人間の傲慢さに由来しているのではないか。三島はこう警告するに違いありません。
私の話は以上となります。有難うございました。
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ドウダンツツジの花 この白い花が ほろほろと散ります。~♪




