これは,人の言葉から考えた話。
“あなたにもある。譲れないことがある。それが価値観で,「らしさ」。”
“それで,どうしてほしいの?”
自分らしさ,について考えあぐねていた時,言われた。
「あなたにもあるよ。譲れないこと,曲げられないこと,あるよね?噛みつくことあるよね?わかるよね?」
それが,「らしさ」で価値観だと。
私は,頑固で,一度こうだと思ったことは曲げられず,我が強いように見えながら,
一方で,人に言われたことを鵜呑みにして,影響されてしまうタイプだった。
だから,ひとに「○○だよね~」と自分の性質について言われると,
「そうか,私はそういう人間だったのか。」と思い込んでしまう。
ちょうど3か月ほど前には,「我がないよね。価値観もはっきりしてないし,人の言葉を借りてきちゃうところあるよね。」と言われたりして,
さらにその前には,ずっと親から「あんたは,ほんとに考えがはっきりしていて云々」と言われていたりした。
最新は「我がない。」という評価だったので,私には我があるように見せかけてない,という自己評価だった。
人に言われたことが本当にそうなのか,この手の件については検証しようがないし,
あいにく,こういったことに対する自分の感覚には,全く信用がおけなかった。
確固たる生き方の指針なんて持ち合わせていないし,これは譲れないと言語化できているものもなかったから,
「私は価値観が出来上がっていない未熟者なのだ」とすっかり思い込んでいた。
そんな中で,冒頭の一言。「言葉にできていなくてもいい。絶対に嫌だ,って思うことが価値観なのだ」と聞いて,
自分がどんなことに嫌だと感じるのか,なら意識を向けて気が付くことができるぞ,と思って,日常の中での嫌な気持ちにアンテナの感度をあげた。
「私の価値観探し」が始まった。
ある日,仲間内で話していると,1人が面白い話をはじめた。
私は,それに聞き覚えがあった。
動画で聴いたことのある話だった。
「あ!もしかして,同じの観てるのかな?あの話かな?」と思って,
「××の話?」そう言った。
しかし,その言葉は拾われないまま(話しているのがチャット上だったということもあって),話が続いた。
ある動画をそのままなぞって。
私は,どうしても,それが嫌だと感じた。
人が作った動画の内容を,そうとは言わずになぞっていく様子に耐えられない居心地の悪さを感じた。
夜を超えて,翌日も暇さえあれば,そのことを思い出しては納得いかない気持ちになった。
(かなり粘着質な性格なのがお分かりいただけるだろうか...)
そこまで考えて,ふと思い出した。
どうしても嫌なことが私の価値観なのだと。
じゃあ,何がこんなに嫌だったのだろうか。
人の物を無加工で自分の物ということが納得いかなかったのだ。
思い返せば,そういうことは多々あった。
あの人のあの言葉は,有名な○○さんが昨日言ったことだとか,
あの話は,××さんが話してたことそのまんまじゃないかとか,
たった今,友人が使った言い回しは,直前私がつかったものだとか,
そういうことにいちいち腹を立てては,眠れない...ことはないけど,
何日も何日も胃のむかつきが治まらなかった。
私は,「自分が自分であること。できるだけオリジナルであること。純度100%の自分でいようとすること」
そのことに重きを置いているのかもしれない,と思った。
「自分で」作ること
「自分の」言葉で語ること
「自分の」考えでいること
「自分だけの方法」で表現すること
「自分で」ということを,なによりも大切にしている(のかもしれない)。
だから,今回許せないと感じたのは,相手が「自分で」作ったものではなかったからだったと思う。
そこで,ふと立ち止まった。
それなら,相手は何故「自分で」作ったものではないことをつかったのか?
その場が楽しくなることが何よりも大切だったのかもしれない。
引用だと明確に示すよりも,そうした方がその話を生かせると思ったのかもしれない。
その人にはまた,その人の価値観があり,それに従っただけなのだと,気付いた。
そうか,私たちはそれぞれ,自分の正義に従って動いただけなのか。
私も曲げられないし,おそらく,その人も曲げられない。
価値観が違うのだ。
私は,私の正義に反した行動だから,許せなかった。
でも,その人はその人の正義に従った「正しい」行動なのだ。
それならば,私の思いを,押しつけることはできない。
思ったようには動かせない。
どっちも悪くない。
だが,そう思えたことで気持ちは収まりはつかなかった。
わかっていても,許せない苛立ちを消化することはできなかった。
感情だけが処理できないまま,残ってしまった。
人に話してみようか,と思った。
どんな話になるかな,って想像した。
その時に,冒頭②の「どうしてほしいの?」という言葉を思い出した。
私は,その人に話すことで何を求めているのだろう。
相手に謝るように促してほしいのだろうか?
私が正しいと言ってほしいのだろうか?
話した人が,なぞった人を嫌いになってほしいのだろうか?
どっちも悪くないから,謝ってほしいわけじゃない。謝ってもらっても気持ちは晴れない。
私が正しいと言われても,分かっているから,だからなんだという話。
話した人の好き嫌いを操作できるわけじゃないし,できたとしても納得はいかない。
どうもしてほしくないのだ。
何をされたって,私のこの気持ちは残るのだ。
全部わかっている。頭の中では処理ができている。
気持ちだけが残っているのだ。
じゃあ,どうすればいいのだろうか。
待つしかないのだ。
気持ちが風化していくのを。
気持ちが水に流れていくのを。
必死に流そうとすることはできないし,する必要もない。
許そうと頑張らなくていい。
ゆっくり,気持ちが過去になっていくのを,見続けることが,今必要なことなのだ。
ただ,待つ。過去になっていくことに耐える。これが私の仕事。
一生懸命に戦わなくてもいいのだ。
ただ,おとなしく待つという決断だって,勇気のある立派な決断だと胸を張っていいんだよ。
そう,自分に言ってみようと思った。
減点方式で人と付き合うのは,もうやめにしたい。
その人を好きだったという自分を否定したくない。
それなら,これまでのパターンを変えるように意識していくしかない。
だから,今回は残ってしまった気持ちをそのまま抱えてじっと待つことを選ぶ。
じっくりと処理されていくことを眺めるということで責任を取る。
これまでを大切にしながら,今を超えて,これからを重ねていけるようにしたい。
私の個性を大切に,相手の価値観を大切に,
全部を大切にしながら,つながりをつないでいけるような生き方ができるようになったらいいな,と思う。