この日の最後のメニューはごみ山だった。
以前は、プノンペン郊外にあるゴミ山に、プノンペン中のゴミが集められ、
カンボジアの最貧困層の人たちがそこで売れそうなゴミを拾いながら暮らしていたそうだ。

いまは、カンボジア政府によってゴミ山はキリングフィールド近くまで移転され、
市役所の許可なしにはゴミ山には入れなくなってしまったらしい。

私たちは、その元ゴミ山という場所に行った。

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ゴミ山に足を突っ込むと、靴がだめになってしまうから、ビニール袋を足首から下に巻くという
なんともこっけいな格好でゴミ山に入った。

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いまはゴミが運ばれていないから、あまりくさくはなかったけど、
絶対に人が住めるような場所ではないことは、一目見てすぐにわかった。

ゴミ山の頂上までしばらく歩いていった。
頂上からは、辺り一面のゴミ山と、その向こうにプノンペン中心部が見えた。


プノンペンの中心部はいくつか大きいビルが並んでいて
カジノなんかもあって、都市化が進んでいる。
この国は一体、なんなんだろう。
カンボジアという国が、どんどん分からなくなっていく気がした。

このゴミ山には、人はすんではいけないんだけど、
一つの小さな小屋を見つけた。
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中にはおじいさん・おばさんと小さい子供が数人いた。
ブッティーさんに「あの家族と話がしてみたい」と言うと、「いいですよ」と言って家族のもとまで
連れて行ってくれた。
最初にブッティーさんが家族に、どうしてここに住み続けているの、と聞いた。
そのおばさんは「新しいゴミ山に行きたいけど、事故で体の半分が動かなくなってしまって行けない。
おじいさんはおかしくなってきていて、時々ゴミ山で迷子になってしまう」と。

私はそれ以上、もう何も聞くことが出来なかった。
何を聞いても返ってくる言葉が予想できてしまうほど、どうしようもないからだ。

おばさんは「子供もいないし、毎日誰かが支援を持ってきてくれるのを待っている」と続けて語っていた。
泣いているおばさんを見て、無責任に話しかけたことを後悔した。

最後にブッティーさんがその家族にお金をあげていた。
こういう人にお金をあげたり、物をあげると、依存してしまうから、
お金やものをあげるのはよくないと言う。それはその通りだ。

でも彼らのように、絶望の中で生きる人に対してはそういう理論は通用しないかもしれない、とも思った。

帰りに、うさがゴミ山のどぶにはまりそうになった。

そんな横を3人の少年が鋭い目をして、こちらをじろじろと見ていた。
彼らは、これからゴミを集めに行くのだろう。

きれいな服を着て、足にビニール袋を巻いてゴミ山にやってきた私たち日本人を見て、彼らは何を思ったのだろうか。

カンボジアの実情を見て、感じて、支援について考えるという大義名分はあったけど、
なんだか自分のしている旅行に対して、自己嫌悪に陥ってしまった。

私は、高いお金を払って、誰かを傷つけてこうして旅をして。

その分、私は誰かにきちんと伝えなきゃいけない。
伝えることで、少しでもこの目の前の状況が変わるように。
そう考えることで、自分を正当化した。

その日の夜は、ムーディーの良いレストランでクメール料理を食べた。
クメール料理は結構口にあって、私たち女性陣はばくばくたべた。
けんとおだーちーは、初クメール料理に、結構面食らっていたようだった。


部屋に戻ってみんなでいろいろ話し合った。
ポルポトのこと、政治のこと、カンボジアのこと、日本のこと。
話し合っても答えは出ないけど、
なんだかそうせずには、いられない夜だった気がする。


おわり。
午後は予定通り、トゥールスレン博物館へと向かった。


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トゥールスレン博物館とは、もともとトゥール・スワイ・プレイという中・高等学校だったところで、
1975年~1979年のポルポト政権の時代に「S21」と呼ばれる刑務所として使われた。
ポルポトの残虐性を語り継ぐために、いまは博物館としてそのまま残っている。

アジアのアウシュビッツと呼ばれるこの収容所では、
政府高官や教師、芸術家などの知識人やその家族など
2万人近くの人が収容され、拷問を受け、死んでいった。

生きて帰ることが出来たのはたったの8名

ポルポトの時代が終わったのがたった30年前ということもあり、
収容所となった教室には、今でも生生しく血痕や当時の拷問器具などが残っている。


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もともと、カンボジアのことは勉強していたし、ポルポトの残虐性についても理解はしていた。
でも、実際にこの博物館を目の前にして、何も言葉は出なかった。

外は雲ひとつない青空なのに、とても薄暗い拷問部屋。
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レンガと木の扉だけで作られた女性の個人収容所。

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中には当時の人が書いたと思われる文字や、数式もあった。

トイレにはいけず、部屋の隅の小さな箱で用を足す。
トイレで自殺するのを防止するために。

とることができる食事は1日2回程度の重湯。

愛する家族とも引き離され、死ぬことも許されずたった一人、孤独に暴力を待つ。

ここにいた人はどんな気持ちでここにいたんだろう。と、想像してみたけれども
生まれたときから平和を保障され、何の脅威にもさらされずに生きてきた私は、
想像の入り口にも立てなかった。

どうしてこんなことが起きたのか。
どうして同じ人間がこんなことをできるのか。

ただ、ポルポト派の卑劣さを嘆き、悲痛な気持ちになることしか
そのときの私にはできなかった。

戦争とか、そういったものを博物館で目にするたび決まって思う。
たまたま、生まれる時代とか、生まれる場所が違っただけ。
私や私の家族がいまの時代に、日本に、こうして生まれたことは
努力の結果ではもちろんないし、私たちは前世でいいことをしたからとか、そんなことを言うつもりもない。
本当に「偶然」だと思う。
何かが違っていたら、ここに写真が展示されていたのは、私かもしれなかった。
これは、絶対に忘れちゃいけないことだと思う。

そんな思いを抱えながら、車で15分ほど走り、キリングフィールドに向かった。


さっきのトゥールスレンは収容が目的だったけど、キリングフィールドはその名のとおり
処刑することが目的の場所」だ。
トゥールスレンに収容された人が、キリングフィールドで処刑された。
キリングフィールドは、一見、これが処刑場かと思うほどのどかな場所にあった。
よくわからないけど、とても皮肉だと思った。


フィールドには、いくつかの穴のようなものがあった。
人々は処刑され、この穴に放られたそうだ。
でも、この穴は処刑される前に、自分たちで掘らされたらしい。
なんだかもう、理解を超えて頭が痛かった。

よく見ると、地面には、犠牲者のものと思われる洋服や
骨、歯がむき出しになっていた。

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昔は土の中に埋まっていたものが、雨にさらされて、土が流れて
出てきてしまったのだ。
地面には、まだ見つかっていない頭蓋骨が無数に埋まっているらしい。

キリングツリーという木があった。

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この木は「殺す木」
そう、小さい子供はこの木に打ち付けられて殺されたのだ。

最後に犠牲者まつった慰霊塔に入った。
慰霊塔の中には、キリングフィールドで見つかった頭蓋骨がいっぱいあった。

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これでも、見つかっていないものがいっぱいあるという。
私は、とてもイタタマレナイ気持ちでいっぱいになった。
そのとき、ある外国人に話しかけられた。

「Would you mind taking your picture?」
どうやら、私たちが慰霊碑に拝んでいる様子を写真に収めたいようだ。

彼は、オーストラリアから来たと言っていた。
彼以外にも、どこから来たからはわからないが、白人の観光客が何人もいた。

人は、いつまで殺し合いを続けるんだろう。
こんなにたくさんの人が、キリングフィールドのような場所を見て、
何かを感じているのに。
どうして、戦争は、なくならないんだろう。
そう思うと同時に
私は、ここで何をしているんだろう。と思った。
高いお金を払って、ここにきて、悲惨だったカンボジアを想って
何をしているんだろう。
私には何が出来るんだろう。

たくさんの頭蓋骨と、大きな草原を前にした私は、
あまりに無力で、あまりに無知な気がした。
こんにちは。まだまだ旅ボケが治りません。
お久しぶりのたにです。

今日は、昨日に引き続き私たちのカンボジア視察2日目に付いて書きたいと思います!
昨日のブログはこちら→カンボジア視察~1日目・出発日~


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前日の長時間の移動・前前日のイベントの疲れもあり、ホテルについてすぐに寝てしまったため、
朝お風呂に入ることから始まった2日目だった。

首都プノンペンのホテル。されど安ホテル。
ちょろちょろちょろ~・・・っと出るシャワーの水を浴びて
この旅の行く末に若干の不安を覚えた。

朝ごはんは一体どんなすごいものが出てくるんだろう。

と、ホテルにあるレストランに向かうと、
出てきたのは日本の朝ごはんみたいなシンプルなメニュー。
カンボジア初食事ということで、みんな保守的にトーストとかサンドウィッチとかパンケーキを食べていた。

難なく食事を済ませて、ブッティーさんとともに車に乗り込みプノンペンの街へと繰り出した。
前日は夜中だったから全然わからなかったけど、カンボジアでは道路交通法って言葉は、無意味に近い。
バイクに2人・3人乗りは当たり前。ノーヘルも当たり前。
(法律では、だめらしいけど)

そして、とにかくクラクションを鳴らしまくる。
この混沌としたエネルギーが東南アジアっぽくていいなと思っていた



それは、一瞬だった。国道からちょっとそれると、道はボッコボコ。
ホテルからちょっとしか離れていないのに、さっそくインディージョーンズ体験ができてしまった。
田舎に行ったらどうなってしまうんだろう。

さて、この日は、本当はトゥールスレン犯罪博物館・キリングフィールド・ごみ山視察→お昼→王宮・シルバーパコダ・国立博物館見学
の予定だったけど、
午前中にごみ山に行くと臭くなるってゆうのと、午後に王宮に行って写真を撮ると逆光になってしまうという

ブッティーさんの気遣いで、午前中に王宮・シルバーパコダ・国立博物館に行くことになった。

ブッティーさんは、本当に気が利くおじさんで、日本に来ても優秀な人材となるに違いないと思う。

そんな気遣いのできる男ブッティーさんに案内してもらって王宮・シルバーパコダ・国立博物館を見学した。
観光気分丸出しで、まるでおじいちゃんおばあちゃんの慰安旅行のように写真を取りまくったし、

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カンボジアの文化がいろいろ知れて面白かったけど、
ブッティーさんの説明があまりに丁寧で、途中何度か、カンボジアの日差しにやられそうにもなった笑



お昼は、プノンペンにある中華料理のお店に行った。

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この旅中、ご飯は旅行会社の手配、ドリンクは自分たちでオーダーというスタイルだった。
この店では、いかにもカンボジアっぽい
「FreshCoconutsJuice」なるものを発見。
ブッティーさんに聞くと、椰子の実からそのままストローで飲めるという憧れのあのジュースだった。
それでも保守的な私たちは、全員椰子の実ジュースを頼まずに、ちゃんとコーラと7upで保険を用意しておいた。

そしてこのコーラと7UPはその保険としての役割を最大限果たしてくれた。

これほど、コーラと7upをいとおしいと思った瞬間は、一生でなかったような気がする笑


観光をして楽しいひと時をすごし、おいしいご飯を食べて

「貧しい国、カンボジア」なんて言葉は頭からすっかりなくなっていた。

それほど、プノンペンの町は活気があった。